Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Mademoiselle

オペラ界隈に用事で寄ったついでに、気になる監督の映画を見た。

Deux moi

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映画館の切符売り場のマダムは、長身に紺の制服とオシャレなメガネ、そのメガネの奥の長いまつ毛に厚く塗ったマスカラが似合って、いかにもパリジェンヌらしい。こちらをちらっとだけ見て、Bonjour Mademoiselle. 9euros s’il vous plaît. と、学生証の提示も求めず、手際よく学生料金のチケットを切った。

手の内に用意していた一般料金から、9ユーロだけ渡して、差し引きドリンク代が浮いてしまったというもの。今日はラッキーな日 ということにしておこう。

 

マドモワゼルになりすましてメルシーを言い、もしかしてマダムだったかしら などと思われる前に、暗い上映室に潜り込んだ。

 

マドモワゼルには色々思い出がある。

 

パリの小さな語学学校に通っていた留学初期の頃、生徒達のお昼ご飯は近所のブーランジェリーのサンドウィッチと相場が決まっていた。冬の殺風景な時期で、空は連日灰色ばっかりで、クリスマス休みの直前ということもあって生徒の数は極端に少なく、私のクラスはアメリカ人にしては華奢な金髪の女の子と私の2人だけであった。

あまり愛想のないその彼女は、20歳という若さにして新婚さんで、授業が終わると毎回そそくさとダーリンに会いに帰ってしまう。特に仲良くなるチャンスもなかったが、ある日(きっとダーリンに用事があった日)、珍しく昼食を一緒にすることになった。寒空の下、お互いにそれほど上手くないフランス語で道々あまり会話も弾まず(フランス語ではなすように と言われていた)、近所のブーランジェリーに入ると、店員の女性は彼女をマドモワゼルと呼び、その次に並んでいた私にはマダムと呼んで接客してきた。

私の方が5歳年上なのは確かだけれど、既婚者は彼女のほうであって、私のほうはセリバテールだ。しかも5歳年上には見えないと彼女は言っていたから、この呼び方の違いは私と彼女との間にほんの一瞬、妙な差を生じさせて戸惑いを呼んだ。あれっ?という顔の彼女と一瞬目が合った。

 

後日、同じ店に足を運ぶと、近所のリセアン(高校生)らしい女の子達が数人でゾロゾロやって来ていた。その女の子達一人一人に対して、先日と同じ店員の女性は「マダム」と呼んでさばいているのを目にした。「なんだ、基準が随分いい加減じゃないの」と思った。というより、そもそも一般的にどういった感覚で「マダム」と「マドモワゼル」は使われているのだろう?

 

語学学校に戻り、その一抹を教師の女性に話して質問したところ、一般的には(街先などでは)ハッキリした基準は無いけれど、成人(18歳)を迎えたあたりから、既婚未婚に関わらず、マダムと呼ぶ方が難がなくフォーマルである というような、納得がいくようないかないような答えが返ってきた。

マダムと呼ばれるのは、一人前の女性に対する敬称で、足元を見られていない という意味で、礼儀正しくさえあるのだと。

でもなにやらその説明は、若くない女性 への慰めに聞こえなくもない。

 

 

フランス人にしては珍しいベビーフェイスが魅力的な友人、マリリンといつか昼食を共にした時。注文を聞きに来た店員の女性が彼女に Je vous écoute, Mademoiselle (注文をお伺いします、マドモワゼル) と言うと、すでに40 歳を迎えて 2児のママンであるマリリンは C’est gentil, mais je ne suis plus mademoiselle (ご親切ありがたいけれど、もうマドモワゼルではないの) と微笑んで返していた。

すでに若くはない既婚の女性が Mademoiselle と呼ばれたなら、(気にせず、むしろどちらかというと喜んで、)そのままで通す風景は何度か見てきたけれど、そうやって訂正するケースもあるのね と思ったものだ。



数ヶ月の留学の後、本国ノルウェーに帰国し、夏休みのヴァカンスに再びパリに舞い戻ってきたクリステルは、フランス語で好きな言葉は マドモワゼル だ と言っていた。その響きが好きだと。

そしてその時、私達は正真正銘のマドモワゼルだった。モンマルトルの袂の、細道に面した気に入りのビストロで、久々の再会を祝してのディナーとお喋りを楽しんでた。ワイングラスには白のサンセールがキリリと冷たく、9時を回っても空は明るく、心地良い夏の夜だった。周囲の陽気な喧騒も手伝って、気持ち良くほろ酔い気分で、お互いの恋の行方話しなどをした。

 

 

大学時代の友人k氏が、パリに仕事でやって来た時。とあるカフェで待ち合わせをした。卒業してからしばらく会っていなかった私達は、その日は数年ぶりの再会だった。

社会人になって、変わったかな?

どんな顔しているかな?

久々の再会に、どんな服をきて行こう?

極寒の冬だったので、黒いロングコートにショールをぐるぐる巻きにして、待ち合わせ時間に少し遅れて回転扉を押してカフェに入ると、先に来ていたk氏がこちらに手を振って合図した。彼は全然変わっていない。その向かいの席に着いてショールを解くや否や、ギャルソンが注文を取りに来た。 Bonsoir Madame, que désirez-vous ? (こんばんはマダム、ごちゅうもんは?)

その「マダム」の響きに、微かながらもk氏が反応したのを私は見逃さなかった。

10代の後半を、同じ大学のキャンパスで過ごした私達。時の流れを感じた瞬間だった。

 

 

そして変わり種は、友人Y君の話。

パリに来たばかりの頃の学生仲間の1人であった日本人のY君は、日本人としては中肉中背、つまり、フランスでは小柄な方で、トレードマークのカーキ色のアーミージャケットを羽織り、くせ毛でうねりのある髪は肩よりも長い。

その彼がカフェのテラスなどに座っていると、背後からギャルソンに マドモワゼル と呼ばれることがあるそうだ。

果たして、くるりと振り返ったその「マドモワゼル」は、正面から見ると無精髭を生やした紛れも無いムッシューであるから、ギャルソンの咄嗟の表情や、取り繕う術を見てみたいものである。きっと、パルドン ムッシューと謝るギャルソンに対してY君は、c’est pas grave ! (セパグラーブ/ 気にしないで!) と、イタズラの仕掛け人よろしくお茶目に笑って、時々あることなのさ と話し、打ち解けたムードでモナコやパナシェを注文するのだろう。

 

さて、

今日の映画で、内容には関係なく個人的に耳に残った言葉。

 

La silence est lourd à porter. 
(沈黙は耐えるに重すぎる)

 

そう、気まずい沈黙は肩に「重い」のだ。

何もないのに重さがあるなんて、不釣り合いだけれど。

 

Comme certain absence est trop présent. 

不在の存在感が大きいように。