Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Les carrosses de Cindrillon

Citrouille, courge, butternut, potiron, potimaron... これ、全てかぼちゃの名前。

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今年もやって来ました。かぼちゃの季節。

一口に かぼちゃ と言っても、フランス語では品種によって様々な呼び名があるからややこしい。皮の色も中身の色も、大きさも形も様々だ。

シンデレラの馬車に変身したのは、一体どのかぼちゃ?

 

去年のカボチャの季節には、料理上手なお隣さん、イザベルに、 soupe de potimaron (かぼちゃスープ)をご馳走になった。ココナツミルクとジンジャー入りで、身も心もほかほか暖まった。

彼女曰く、かぼちゃの「解体作業」は男性が受け持つべき仕事。確かに、日本の出刃包丁でもない限り、ずっしりと重く、しっかりと実のしまった大きなフレンチカボチャを切るのはなかなかの力仕事だ。そしてフランスの家庭のお台所には、出刃包丁は愚か、信じ難いことに包丁らしい包丁さえ見当たらないことも往々にしてある。ジャガイモの皮を剥くのに使うような小ぶりのペティナイフが、万能包丁として活躍していることも稀ではないのだ。

因みに、イザベルの旦那さまのベルトランは大の日曜大工好き。そんな彼が、片足をカボチャの上に乗せて、ノコギリでギコギコと、この丸い野菜を「解体」している姿が勝手ながら頭に浮かんできて、クスリと笑えた。まさか ね。

どんな包丁を使って切っているの?と試しに聞くと、これだよ と言って取り出したるは、日本製の大きなセラミック包丁だった。

 

そんな話で思い出すのは、近所の図書館で見付けて息子のために借りた、Mon voisin (お隣さん) という絵本。記憶が確かであるなら、内容はこうだ。

「ぼく」のアパルトマンの隣の部屋に引っ越してきた、何の変哲もない風采のムッシュー。ところが、彼の部屋から毎日壁伝いに変わった音が聞こえてくる。カシャンカシャンと剣を振りかざす音、ギコギコとノコギリの音、トントントンと木槌の音、コンコンコンとキツツキの音。その度に「ぼく」は想像する。お隣さんは兵隊に違いない、それとも大工だろうか、はたまた判事か、あるいは野鳥研究家か。ある日「ぼく」は、隣からくる騒音にたまりかねて(本当のところは、膨らむ好奇心に駆きたてられて)、隣のドアをノックする。申し訳なさそうな顔で出てきたお隣さん。「いやあ、困ったことに、こいつがなかなか開けられませんでね」と彼が指し示したテーブルの上には、剣やらノコギリやらくだんの音の正体が散らばるその真ん中に、ぽつりと、一粒のクルミが置いてある。「そういうことでしたら」と、「ぼく」は、これを使ってみてはいかがでしょうかと、くるみ割りを差し出す。持つべきものは良き隣人、めでたしめでたし というオチのお話だ。ウィットに富んだお話もさる事ながら、小さい子供にとって馴染みのない職業の名前も覚えられてしまう というオマケ付きの、傑作絵本の1つだ。

Revenons à nos moutons. (我々の羊の群れに戻ろう) 話をかぼちゃに戻そう。

何を隠そう、私は秋には週に一度はカボチャを料理する。夫に「解体作業」を手伝ってもらったことは一度もない。(彼は日曜大工も苦手である。)

クルミを砕く「くるみ割り」は、フランスの家庭の台所の引き出しによく見かける道具だけれど、かぼちゃを切る「カボチャ包丁」なんてものは存在しない。だからどうしたって毎回格闘になるのだ。

Tu es courageuse ! (あなたってがんばり屋さんね!)とイザベルは褒めてくれるけれど、この秋はさすがに、もうすこし楽に料理する方法はないかな?と考てみた。

そして、大きなカボチャをそのままゴロンと特大キャスロール(鍋)に放り込んで蒸すことを思いついた。包丁を入れず、皮も剥かず、指一本触れないそのままの姿で。水を加え、蓋を閉めて火をかけ放っておけば、ほら出来上がり。これ以上ラクな料理ってあるかしら!と、我ながら革命的なアイディアにご満悦。

出来上がりもなかなか。思ったよりも短時間で程良い具合に蒸しあがった。それをバースデーケーキのように切り分けて、塩と極上のオリーブオイルでそのまま頂くもよし、潰してピューレにするもよし。無傷な状態で調理するため、心なしかいつもにも増して野菜の滋味が感じられ、美味しい。

かぼちゃ革命!これからは丸ごとで行こう。

Une corvée de moins !

面倒な作業が1つ減ったというもの。

イザベルにも教えてあげようかな。かぼちゃを手なずける方法を見つけたよ ってね。