Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Il aimait les femmes, toutes les femmes

トゥールーズ・ロートレック展に足を運んだ。

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19世紀のパリの夜の華やぎを謳歌した人物の1人だ。152センチのちっちゃな体で、36年の短い生涯を大胆に生き抜いた。存命中に名声を得た画家の1人でもある。

裕福な家庭の出であったらしい。父親は良家の一人息子が画家になることを必ずしも望んではいなかったという。母親は何があっても息子を支持したという。アルコールと梅毒に体を蝕まれ、早世の画家はママンの腕の中で息を引き取ったという。そして、たくさんの女性達の絵をこの世に残した。

 

娼館に足繁く通い、そこに暮らす娼婦達のちっともエロチックじゃない生活風景を数多く描いた。欲情を駆り立てないそれらの絵は、タイクツだと一笑に付されることもあったようだけれど。

赤毛の女性が好みだったようで、燃えるようなオレンジ色の髪の女性があちらこちらに描かれている。当時の娼婦達は、そのトレードマークとして髪を赤毛に染めていたことも初めて知った。娼館と言っても、政府の監視下に置かれていて、性病の蔓延を抑えるために定期的なメディカルチェックも義務付けられていたようだ。そんな彼女たちがキャバレーで客に奢ってもらった飲食は、現代の回転寿司の要領で、小皿の色で値段が分かるようになっていたのだとか。テーブルの上に小皿が積んであればあるほど、客に貢がせている証になる。

ゾラもバルザックも、19世期の作家はこぞって娼婦を主人公にした小説を残しているけれど、当時のパリの人間社会を語るのに避けては通れないテーマであったのだ。

時折、絵の中に描かれている人物の顔が妙にくっきり青白く、あるいは緑色に照らされているのが印象的なのは、当時普及したばかりの室内灯の光が画家の目に新しかったことを物語っている。イギリスに次いで産業革命を果たし、世の中が飛躍的に近代化した時代だ。

 

ロートレックといえば、言わずと知れたダンスホールやテアトルのポスターもたくさん制作した。広告はメッセージが簡潔な方が伝わりやすい。シンプルなラインによる平面的なリトグラフィーは、エスタンプ・ジャポネ(浮世絵)の影響を存分に受けていたらしい。日本人としてちょっと鼻が高い。そう言われてみると、作品上に残された彼のサインだって、まるでスキップしている鳥居のように見えてくる。

ジャポニズムのヴァーグ(波)は、当時どのようにしてフランスに到達したのか?と案内人に聞いてみた。絵画においてのそもそものはじまりは、陶磁器が日本より届いた折に、それを包んでいた紙に絵が描かれていて、それに注目したのが発端だった という説があるそうだ。これは全く初耳のアネクドット(逸話)だった。

 

ムーランルージュのフレンチカンカンは足並みを完璧に揃えて踊るタイプのダンスではなく、それぞれのダンサーに独特の持ち味があるのが評価されていたということも改めて知った。踊り方のみならず彼女達の体格も、太っちょあり、ノッポあり、チビありといった具合に、好みの違う観客達がそれぞれのお気に入りを見つけられる趣向になっていたそうだ。「みんな一緒」を目指さないところが、いかにもフランスらしい。

いつか知り合いの夫妻が日本からフランス旅行に訪れた際、ムーランルージュのフレンチカンカンを鑑賞して「足が揃っていなかった」と感想を漏らしていたけれど、それもそのはずなのだ。

 

絵画を「読む」のは、大人になってから知った楽しみ方の一つだ。

19世紀へのタイムスリップ社会科見学。興味深くてつい長居した。