Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Croire ou ne pas croire

学校閉鎖中の月曜日。

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息子の歴史の先生から生徒達にメッセージが届いた。教科書の「ユダヤ教の誕生」の章を読んでおくようにとのこと。

 

私にはイスラエルに住むユダヤ人の友人ナタリーがいる。10年以上前、パリで留学生活を送っていた彼女に出会ったばかりの頃、私はユダヤ教やイスラエルの歴史について一般常識以上のことは何も知らなかった。日本ではユダヤ人なんてお目にかかったこともなかったし、歴史の教科書にだって大した説明は載っていなかったと記憶している。母国で兵役を終えたばかりだという彼女が物珍しくて、色々と無知な質問を浴びせたものだ。

フランスの子供達の歴史の教科書には、キリスト教誕生の前段階として、ユダヤ教の誕生のいきさつに長々とページが割かれている。住む国が違えば、そこで教わる歴史の内容も違うもの。

 

 

夜、おやすみなさいを言う前に、居間のソファーで夫が息子に本を読んでいる。(息子のフランス語の本は、基本的に、ママンがセレクトしたものを、パパに読むようにお願いしている。) 同じアパルトマンに違う宗教を信じる人達が住んでいるという設定の、子供向けのお話だ。そしてそういう状況は、パリでは十分に実際にあり得る事でもある。

途中で Athée (アテ/無神論者) について夫が説明しているのが聞こえる。夫は紛れもない筋金入りのアテなので、その事もついでに話すかと思ったら、個人的な立場には触れずに本の内容に戻った。少しホッとする。神様を信じるか信じないかは、家族の影響からではなく、できれば純粋に本人の感じるところから選択して欲しいと思うから。

 

それにしても、ママンはアテなの?と聞かれたら、私はどう答えよう?

 

物心付くまで毎週末家族に連れられて教会のミサに通っていた私の義母、ジョスリンは、「でもある時ね、神様はいないってことに気付いたの」だと語っていた。「それまでは信じていたのよ!この私が!」と笑う。現実的な性格で、いつも活発なパンツルックで、昔から髪型は合理的なショートで、現役時代はバリバリのワーキングウォーマンであった「モダンな」彼女らしい物言いだ。ジョスリンはパートナー(つまり私にとっての義父)を比較的若くして亡くしているが、死後の魂の存在は信じないと断言していた。灯が消えるように、ひとたび命が途絶えたら、もうそれきり「無」なのだと思うと言っていた。聞いていて、それは少し悲しいなと思った。そう話している時の彼女本人も、いつになく寂しい目をしていた。神は存在しないという彼女の発見は、サンタクロースが存在しないと知った時の子供のように、肩を落とすような発覚だったのかも知れないと思った。

 

一方、近所に住む友人エドウィッジは敬虔なクリスチャンで、行きつけのカフェで一緒にお茶をしていて宗教の話になった時、キリストの存在を信じている と、なんの曇りもないトーンで打ち明けてくれた。彼女にとって、魂の存在というものにも異言の余地はない。そこから転じて日本の仏教の話になり、輪廻転生の事に触れると、それはカトリックの教えにはない考え方で、面白いけれど信じないわと、笑いながら真っすぐなコメントが返ってきた。

 

別の友人ソニアは、ご両親がアルジェリア出身、つまりイスラム教徒の家庭に生まれているけれど、本人は信者ではない。女性信者にとって義務であるスカーフも、もちろん身に付けた事がない。現代女性然りといったファッションで街を闊歩する生粋のパリジェンヌだ。このご時世のせいもあってか、あまり自分の育った宗教的な環境について触れないけれど、時々会話の端々に彼女の選んだ立ち位置の様なものが感じられる。彼女はアテだと自称しているけれど、それは「現在の情勢がら」いわゆる一般的なイスラム教信者ではない という意味であって、実のところは完全な無神論者ではなさそうな気がする。イスラム教が叩き台に出されるようなシーンでは、どことなく微妙な心境になるらしいのが見て取れる。宗教としてではなくとも、自らの育った文化として、真っ向から批判されるとやはり心中複雑なようだ。

 

 

フランスの歴史や国語の教科書にも登場するギリシャ神話には、老若男女の神々が大勢いて、悪戯をしたり、過ちを犯したり、神様のくせに人間味があっておおらかで面白い。インドのヒンズー教の神々にしてみても同じだ。日本の神話もそれに近い。一神教よりも多神教の方が感覚がルーズなのは明らかだ。

 

個人的には、神様は1人なのか大勢いるのか、どちらでもいいやと思っている。どの神様でもいいし、名前なんかなくったって、あるいは勝手に付けたっていい。超越した目に見えないものの存在は、信じずとも感じるので、それをもし魂とか神と呼ぶのであれば私はアテではない。特に母が他界してからは、毎年咲く桜や、日の光や、一本の花にさえ別の何かを感じる。けれども、特定の宗教を持たないという意味では私はアテの1人なのだ。

 

バリ島に遊びに行った時、伝統的な造りの家に家神様のホコラがあって、早朝に南国の花を盛った籠を携えたシャーマンのような男性がお香の煙と共にどこからともなく現れて、ホコラに花を配って回っていた。それを眺めるのが好きだった。神聖で素敵な風景だなと思った。私も自分の「おうちの神様」の居場所を決めて、そこに毎朝花を活けようかしらと思ったものだ。神様は、居るのかいないのか探すものではなく、発明するものなのかも知れない。

 

あなたのママはね、そんな風に思っているのですよ、息子君。