Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Montmartre, notre quartier

週末に、昔、夫と私が住んでいたモンマルトルのあたりに観劇に出かけた。

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パリの北の方、18区の辺りには、結婚して子供ができてからほとんど足を運んでいなかった。理由は、今住んでいるカルチエとちょうど反対方向であるのと、特に用事がなかったからだ。庶民的で雑多な地域。お世辞にも綺麗な地域ではないけれど、とってもアメリー・プーラン( Amelie Poulain / フランス映画「アメリ」) な、味のある場所。丘を登る坂道と、お宮参りのような急な階段がいっぱいある。ブラッサイのノモクロ写真の空気が今も残っている。愛着のある土地。

 

車で暮れなずむ街中に滑り込むと、建物の合間に白いモンマルトル寺院の先っちょが見えた。この光景、懐かしい。私がかつて住んでいたアパルトマンの窓からも、こんな風に、ほんのちょっとだけ見えた。夕空が甘酸っぱい色に見えるのは、このカルチエに色んな思い出があるからだろうか。

 

昔よく入ったカフェの前を通過する。信号が赤にならず、停車して眺められずに過ぎるのが惜しい。夫とデートしていた時に、その友人サミアに始めて偶然会ったのもこのカフェだった。サミアはすこぶる頭脳明晰、学業優秀にも関わらず、仕事場のデスクの下で昼寝しているのが見つかって、入社したての会社をクビになったような個性的な女の子だった。サミアの恋人、エリックが住んでいたブールバードも通る。日当たりが良くて、よく茂ったベンジャミンの鉢植えに占拠された、狭くてチャーミングなアパルトマンだった。使わない時は、まるで壁の造り付けの戸棚のように収納できる、面白いカラクリのベッドがあった。サミアとエリックはその後もずっと付いたり離れたりしていたけれど、結局、エリックは最近本国ノルウェーに帰り、サミアはというとパリに残った。磁石のような2人だから、またその内いつものようにくっ付くのかしら。

 

夫が学友ヨアンとシェアして住んでいた、マルカデ駅近くのアパルトマンの前も通る。体格の良いラグビーマンだったヨアンは、現在は優しいパパとなってドイツに住んでいる。このマルカデ・ボーイズのアパルトマンへは、よく遊びに来たものだった。いつも彼らの友人達が出入りして、私にとっては良い「フランス社会見学」の場だった。

その斜め向かいのブーランジェリーもまだ健在。時々朝のパンオショコラを買ったっけ。そしてその少し先に、あれ?こんな所にカフェなんてあった?と訊ねると、夫は「何を言ってるんだ。初めて俺たちがケッコンの話をしたカフェじゃないか」とのたまう。私の記憶によると、その話をしたのは、もっとピガール寄りの騒々しいカフェだったけれど。どちらの記憶が正しいのか、今となっては真相は分からない。例え同じ出来事を分かち合っても、記憶は人それぞれ違った自由な形で残るものだから、きっとどちらでもいい事なのだ。それよりも、そんな話をした日の事が、彼の中にも印象深く残っていたのだと知ったのが新鮮だった。普段そんな話は一切しない夫だ。

 

角を曲がって、マチューとヴィリアと一匹の猫が暮らしていたアパルトマンの前も通る。緑の目が美しいヴィリアは飛行機恐怖症だったけれど、ふたりは結婚して、仕事でアメリカに渡ってしまった。機中は大丈夫だったのだろうか。子供が2人できたと風の噂で聞いているけれど、あの頃以来会っていない。

 

私達がよく使っていたミニスーパーは、チェーン店が替わっていた。 Coeur de bœuf (クー・ドゥ・ブフ / 牛の心臓 ) という品種のトマトをはじめて買った記念すべき八百屋、夫と2人で寿司作りに挑戦した時にネタを買い求めた魚屋、ハロウィンの夜に仲間たちと集まって飲んだバー、友人クリスティーヌとお茶をしていて変わった人に声をかけられたカフェ、サミアとエリックの贔屓のガレット・ドゥ・ロワが美味しいパティシエ。そんなこんながいっぱい詰まった場所。あの頃、夫と、私と、気のいい仲間たちが、みんな呼び寄せられたようにこの地域に住んでいた。今は解散してしまったバンド仲間に想いを馳せるような気分で景色を眺めた。

 

車の助手席で前を向いたまま、左側の夫を意識して思う。この人は、もっと細くスラッとしていて、髪も黒々で、車なんか持っていなくて、ケンカすることもなく、週にせいぜい2、3回会って嬉々としていた時期があったんだっけ。そんな以前の彼の姿が、ロシアの入れ子人形のように、今の夫の内側に存在するのをふと垣間見た気がして、くすぐったい思いがした。過ぎ去った時間は無くなりはせず、ちゃんとそこに残っているのだ。きっと。

 

思い出を時々きちんと掘り返してあげるのは大切なことだと思った。それは、現在位置を確認するのにも一役買ってくれる。

車窓から眺めるパリの街は、それだけでまるでちょっとした映画みたいだ。本物の観劇の前に、昔馴染みのカルチエを舞台に、過ぎ去った日々の幻を観劇した黄昏時であった。