Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Les objets et ses sentiments

この世の形あるモノには、全て多かれ少なかれ魂と呼べそうなものが宿るのではないかと思うことがある。例えそれが生き物でなくても。

 

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よく晴れて気持ちの良い朝。今日こそ玄関の壁一面の戸棚を整理するゾと目論んでいる。

フラフープやら木製の弓矢やらローラースケートやら、戸棚の片側は息子の外遊びのおもちゃガラクタがごっそり押し込められている。誰も片付けてはくれないので、開けると雪崩のように落ちてきそうな具合だ。戸棚の反対側は、家族3人分の靴が上から下まで無造作に並んでいる。中には既に履けなくなったものもあるだろう。

 

日々の生活で、なるべくムダなものは取り入れないようにしているつもりでも、気が付くと家の中は呆れるほどもので溢れている。いかにその増殖を防ぎ、占拠されずに済ませるか?いかに空きスペースを確保するか?それが問題。

 

モノが必要を遥かに上回った時、忘れられたもの、使ってもらえないもの、役割を果たせないものも、人間にとってのフラストレーション、悲しみ、淋しさ、要求、退屈な思い、と言った感情みたいなものを発する気がする。然るべき場所に収まっていないモノなども、実に居心地が悪そうだ。

需要と供給のバランスが崩れると、モノにパワーを奪われる気がする。明らかにエネルギーを持っていかれる。

 

ある空間を占めるということは、同時にある一定の時間を奪うことにも繋がる。形あるものには時間が存在する訳だから。形ないモノにとっての時間は、もっと、縦軸横軸が取り払われて自由な筈だ。

 

日本で一時流行った断捨離は基本的にはフランスには無い感覚だけれど、暫く前にコンマリの本がベストセラーになり、友人アデルも面白く読んだと感想を述べていた。

数年前に Fais pas si fais pas ça というフレンチドラマがロングランで流行った時も、「周りのゴチャゴチャしたオブジェが私達のエネルギーを吸い取っちゃうのよ!」と、主役の女性のセリフにあった。お片付けの美学がそれなりに流行った。

フランス人にとっても、シンプルイズベスト、清貧の美はジャポニズムの代名詞。私もジャポネーズの天賦を発揮せねば。ハタキを持ってしばし腕組み。

 

それにしても、どこからモノはやってくるのか。モノはやっぱりお金と縁がある。お金と交換してもらうために多くのモノは存在する。

世の中にこんなにモノが溢れているのは、人間のお金への欲が溢れているから。例えばそんなオブジェ達も感情を有しているのだとしたら、それは一体どんなだろう?そんな感情を発するものばかりに囲まれて生きていたら、どんなだろう?

必要に合わせてモノをあてがうのではなく、モノを先に用意して必要を生み出す。お金を得るために欲を誘き出す、そのオトリの役割を担うオブジェの多いことと言ったら。

 

モノを生み出したいというクリエイティブでアクティヴな欲求から湧き出たオブジェもあるけれど、そのモノを媒体にしてお金を引き出したいというパッシブな要求から世に生み出されたオブジェもあって、モノの生まれ持っての性格はそれによっても左右されそうだ。

 

とにかく、人の生み出したモノは何かしら主張を持っている。それが満たされないと彼らだってそれなりに不満になるだろう。モノが溢れると息切れしそうになるのは、そんな「思い」で空気まで満たされてしまうから息が詰まるのだろう。

 

自然界のものには、全てそれがそこに存在する意味やら役割がありそうだ。必要性がなければ、そこにそれがあるはずがない。必要のないモノは自然に消えてしまうシステムだ。ところが、人が生み出した必要のないモノは、なかなか消えてくれない。どんどん現れて、なかなか消えないから溢れてしまうのだ。今や必要なのは現す魔法ではなくて、消す呪文なんだろうな。

 

昔見た「ブラジル」というシュールな映画で、ある男が紙の嵐に窒息させられるシーンがとても印象的だった。紙というものはいつのまにか増える。どんどん増える。その上に書かれている意味が重みを持って、そう簡単には処分できないから厄介だ。書類の整理や、面倒で大量な事務仕事などに追われると、いつもあの映画のシーンを思い出してしまう。

 

紙といえば、昨日パレ・ロワイヤルの近くまで用事で出掛けて、不意に潰す時間ができたので、和書を売っている本屋にふらりと入った。イシグロカズオの新刊が読みたいなと思って探したけれど、見つからなかった。女の子とロボットの友情の話のようだ。近未来が舞台なのだろう。形あるものにはきっと魂が宿るという気がしているから、とても気になる小説だ。読んでみたい。入手できずにがっかりしたけれど、一つ片付けるモノが増えずに手ぶらで書店を出て来れたのは、きっと良いことなのだと思うことにした。

 

 

いつも思うことだけれど、今の私たちは、何かを持っている事ではなくて、逆に何も持たないこと、スペースがあることを贅沢と見做す時代に生きている。

次なる疑問は、ではヴァーチャルのモノには果たして魂はあるのか?ということ。言霊と呼ばれるモノがあるくらいだから。。。

 

最近になってやっと、「身の丈程」という言葉の含蓄の深さが分かってきた。自分に必要なもの、必要な人だけに囲まれることの大切さ。難しさ。

健やかに暮らしていくには、人間関係であってもモノであっても、要らないものを見分ける、見極める、拒む、取り入れない、といった排除の審美眼が必要なんだろうな。

 

さてさて、

ぶつぶつ言わずに、お片付け お片付け。