Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Etre heureuse

最近ずっとインディアン・サマーが続いていたけれど、今日は時々雨が降って夜半は涼しくなった。

 

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夫は、カイシャから帰るなり、薄手のセーターに腕を突っ込みながら、「ほーら、秋が来た」とのたまう。まるで「覚悟しろ」とでも言うような口調で。

彼曰く、パリの秋は雨が多くていただけない。面白くない季節に突入という訳だ。パリジャン達がヴァカンスから戻る頃、今度は太陽がヴァカンスに出て長らくパリを不在にしてしまうのだ。

 

日本にいた頃、秋は好きな季節だったけれど、パリに来てからは初夏のほうを好むようになった。不在の太陽以外に、秋がアンニュイなもう一つの理由は、学校の新学期が始まることだ。息子にとっても、ママンの私にとっても、これは本当に面白くない。そしてどうやら私達以外にも、多くの子供達にとって学校は面白くないものの代名詞のようだ。子供時代の大半を過ごす場所だと言うのに、残念なことだなと思う。

 

ちょっと困った悩み事を抱えている友達がいて、夕方、彼女の相談に乗った。抜けるに抜け出せない状況にあって、辟易している。助けてあげたいけれど、私に出来るのはせめて話を聞いてあげることくらいだ。

彼女は今、周りの人間がどの人も羨ましく目に映ってしまうようだ。私もそのうちの1人と見られているようなのが感じられて、それは違う、人それぞれ苦しいこともあるものだと言おうと思ったけれど、やめておいた。幸せそうに見えるのなら、それでもいいかな と思い直したから。「あなたは幸せね」と言われたなら、褒め言葉と受け取って、そういう事にしておけばいい。どちらのほうが大変な思いをしているかだなんて、競争しても仕方がない。何があっても幸せそうに見えることの方が、一端の悩みを持っていることよりも自慢になる筈だ。

それに、いい事もあれば、よくない事もある、そんな普通の生活が淡々と送れているうちは、確かに幸せなのかもしれないとも思った。

 

光り輝く幸福感に満たされる明らかなハッピーも存在するけれど、「不幸の不在」といったタイプのささやかな幸せだって、確かに幸せのうちの一つに違いないのだろう。今の私にだってリッパな悩みの一つや二つが無いわけではないけれど、人の悩みを聞いてあげられるだけ、自分の悩みを棚にあげる事ができるだけ、まだ余裕があるということだ。

 

秋バラの美しい季節だ。

悩みを抱えた大事な友人の目にも、「元気を出して」と言っているこの花の美しさが映るといいけれど。