南仏日記

静かな朝
庭のプールの水面が微風にさざめいている。
緑があって、水がある。平和な光景だ。
そのうち野生動物の親子なんかが水を飲みにやって来そうな気がするけれど、ここは森ではなく人家の庭で、プールは泉ではない。野生動物の代わりに浄水ロボットが水の底でじっと出番を待っている。
今朝は積んだばかりのタイムとローズマリーのお茶を淹れよう。庭のサイプレスの木を眺めながら、隣の畑から届いたイチジクと黒葡萄を朝食とする。
日曜の今朝、本当は隣町の蚤の市に行きたいと思っていた。
「早朝に出掛けて蚤の市を覗いた後に、港で朝食をとれば素敵じゃない?」と提案するも、そんなプランを素敵だと思うのは私だけで、昨夜遅くまでテレビを見ていた輩はもちろん早朝になんて起きるはずがない。
同じものに興味のない私たち。彼らは最初から気乗りがしなかったのだ。
夫は、一緒にいる時間が長ければお互いに影響し合って好みも似てくるかと思えば全くさにあらず。息子については、自分のお腹から出たとは信じがたいほど好みが違う。
いまだに遊園地のような場所に行きたがる息子と、炎天下にできるだけ遠くに行きたがる夫と、隣町のつまらない蚤の市なんぞに興味を持つ私。
どこに行こうかと話し合う時、三人の意見が一致する事は悲しいかな殆ど無いのである。やれやれである。
そして、車を運転しない私は南仏ではフットワークの軽さを完全に失い、すっかり家族に頼りきりになる。
自由になりたい。
教習所に通い直すべきだろうか。
そうしたら、早朝にひとりで隣町の蚤の市に出掛けて、誰に催促されることもなくゆっくり見て回り、19世紀の花柄のデザート皿なんかを一枚掘り出して、疲れた頃に港のカフェテラスで冷たいクリームソーダを注文し、海を横目に少し本を読んでから、気温の上がる昼前にはご満悦で家路に着けるのだ。もっとも、フランスにクリームソーダがあればの話だけれど。
自由になるには、なんでも自分でできるようにならねば。
気力体力だけでは足りない。免許が要る。経済力も要る。そして自分のために使える時間も必要だ。
昨日の夕方に夫の提案で (気乗りしない息子を無理やり連れて) 歩いた海沿いの小さな村は、見事になんにもない所だった。寂れた古い村にはそれなりの趣きがあるが、昨日の村は中途半端に新しく、かと言って粋なカフェなんぞは不思議と一つも見当たらず、猫の額ほどのビーチに村中の老若男女がひしめき合って肌を焼いていた。日差しは焼けるように鋭い。
小さな港は手前に無数の白いヨットが停泊し、遠くに錆びた巨大な戦艦が防波堤の代わりに配してある。こんなにみすぼらしい船は滅多に見ない。ちょっとシュールな光景だ。どうして廃船にしないのかしらと問うと、「そう簡単に言うけれど、巨船の解体ってのは大変なんだぞ」と夫。自分の提案で訪れた村だから、思わず弁護に回ったのだろう。
もし私がこの村に生まれていたら、この場所に愛着を持っただろうか?海はある。太陽もある。子供のうちは家族や近所の友達さえ居れば事足りるだろうけれど、大きくなるにつれて物足りなくなって、文化の香る他所の町に間違いなく出ていただろうなと想像する。きっとこの村の多くの若者のように。
彼らが子供時代の夏を思い返す時、海の思い出と共にあのサビついた戦艦が自ずと目に浮かぶのだろうか。
村を訪れた帰りの車内のラジオでは、ブルキニという名の全身を覆い隠すイスラム女性の水着が、南仏のどこだかの自治体で禁止されるのされないのが話題になっていた。ヌーディストビーチの存在するフランスで、である。
イデオロギーの問題とは言え、人間社会は複雑だ。
さて。
日がだいぶ登ってセミが鳴き始める頃やっと夫が起床して、いつものように静寂に耐えられない彼はすぐさまラジオを点ける。
やがて息子も眠い目を擦りながら台所に現れて、今日はどこか面白いところに連れて行ってくれるのかと訊くのだろう。
2人とも蚤の市のことなんてお首にも出さずに。
どのみちもう時間が遅すぎる。
誰かと暮らすということは、相手が誰であってもある程度自由が奪われるという事だ。
きっと、私たち、そしておそらく多くの人にとっての最善策は、それぞれ自分の居住空間を持ち、自分の好きなものに囲まれて好きなことをして暮らすことだろう。
そう、「すてきなひとりぐらし」をすること。
でも、無いものねだりするのが人間の性だから、ひとたび1人きりになってみると今度は寂しくなるのかな?たとえ1人が得意な私であっても?
夫の大音量のラジオに静かな朝を奪われた私は、台所を離れて庭のサイプレスの木陰に避難する。ここからは石灰質の白い丘が見える。
空には雲一つない。
毎日雨の一滴も降らない。
来る日も来る日も見事な洗濯日和である。





