Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Premier cours de la cérémonie du thé

初めての茶道教室

 

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今年も、気が付けば早師走。

そして、ひょんなご縁からパリで茶道の稽古に通うことになりそうだ。

とある人に教えてもらったその道場は、トロカデロ広場に近い。パリに来たばかりの頃にホームステイしていた懐かしいカルチエだ。今頃になってようやく習い始める茶道といい、以前通学路にしていたこの光景といい、振り出しに立ち戻るとはこのことか。冬の凜とした空気も手伝って、背筋が伸び気が引き締まる。この辺りは、歩いていて心地よいパリの中でも一際上品な地域だ。

 

アパルトマンの一角にあるその道場は、重厚なドアを押し開けると、まずお香の和の薫りが先行する。ここからが既に非日常。特別なイベントの始まり。

エレベーターで一緒になったアジアチックな女性は生徒さんの一人で、フランス語で話しかけるところを見ると日本人ではないらしい。踊り場で靴とコートを脱ぎ、カバンを置き、一通り準備が整ったら目の前のドアを開けて入室するのだとヒソヒソ声で教えてくれた。どことなく宮沢賢治の注文の多い料理店のよう。秘密めいた雰囲気だ。

彼女は着替えるからと言ってもう一つのドア(洗面所らしい)の向こうに姿を消してしまった。尖ったもの (ブーツ) 固いもの (カバン) 重いもの (コート) 全て体から外し、全部コート掛けに託して身一つになり、髪を結ぶと、後は着替えから戻る彼女を待つ理由も特に見当たらないので、思い切って次のドアを開けてみた。

目に飛び込むは、畳、障子、掛け軸、花。潔くそれ以外は何にもない。今歩いてきたパリの風景と打って変わって、全くの異空間。

そして、ずんぐりむっくりした山猫の代わりに、白銀に近い薄い色の着物を召したすらりとした先生が姿を現した。柔和な雰囲気でありながら、凜としている。照明を落としているというのに、不思議となにもかもが眩しい。清々しさというのは光を放つものなのだろうか。

 

以下、体験稽古の覚え書きを羅列する。

茶室の入り口は引き戸があるものとイメージし、片手で七割、残りをもう片方の手で開閉。畳は半畳を3歩で進む。本日の掛け軸は「無事之貴人(ぶじこれきにん)」。年末によく使われるのだとか。

道具に対してお辞儀をするのは掛け軸のみ。道具を置くのは畳の縁から約28センチ。どこだかのお寺でお茶の祭典があるのも28日と聞く。28という数にどんな意味があるのか、聞きそびれた。利休と縁がある数だろうか?

飾り花は椿と見紛う白いクリスマスローズ。温暖化の影響で、椿の入手時期が年々遅れがちとのこと。

「見る」という動作も、敢えてそれだけ切り離して行うことの面白さ。「鑑賞する」時間を作ることの贅沢。加速して止まない日々の生活から、たったドア一枚隔てた別のタイムポケットに入り込んだ感覚。

お菓子は主菓子の餅饅頭が感動するほど美味しかった。丸いお餅のてっぺんに小さな窪みがあり、そこに透明な寒天が流し込んである。小山の頂上に薄氷を張った池があるような光景。中には胡桃が入っていた。非常に丁寧に作られたお菓子だ。銀杏の葉や菊を型どった干菓子は、先生がご実家の山口から持ち帰られたもの。取り箸も菓子切り楊枝もクロモジ。表千家はキラキラ光る金属製のものを好まないのだとか。

若手陶芸作家の手による斬新なお茶碗も、非常に私好み。富士山をひっくり返したような美しいシルエット。茶杓は珍しく胴体に穴が空いていて味わい深い。茶器は漆に金の蔦模様。道具ひとつひとつのセンスの良さに唸る。

常に美しい本物に触れておくことが大切ですと語る先生。それは母が常に信条にしていた事でもある。

日本はもとより、パリでは更に珍しい表千家。良き師に巡り会えて幸運だ。

 

アジアチックな生徒さんは仏中ハーフと知る。茶道歴4年。お茶販売の仕事をしているそう。お茶会中の会話はもちろんフランス語。

二杯目のお茶を勧められた時にやんわり断るセリフを、フランス語でどう表現するのが適切か?という話にもなった。「もう充分頂きました」と表現するのに、J'ai assez bu では抵抗がある(同感)ので、 suffisamment bu の方が良いのではないか とか。この辺りのフランス語のフォームを整えるのも、一考に値して面白い。

途中、遅れて日本人の男女1組の生徒さんが到着する。ショートカットの可愛らしい女性は、淡い小豆色の着物がよく似合っている。パリの懐石レストランで働く若手の2人のようだ。男性の方はソムリエだとか。

茶器にはナツメ、金輪寺、吹雪、それから名前は忘れたけれどもう一種類あるそう。

後半、更にもう一人チャーミングなフランス人女性が加わる。生粋のパリジェンヌのようだけれど、なぜかアジアの血が混じっていそうに見えてしまうのは、お茶の席だからだろうか?

 

動作と仕草のこと、掛け軸や花や道具を見ること、お茶とお菓子を味わうこと、思えばそれ以外のことは一切考えなかった。時間を忘れ、煩雑な日常を忘れて、心地よい緊張感と寛ぎを同時に体験する稀有なひと時。昔苦手に思った「お決まり型」の作法が、実はこんなに味わい深いものだったなんて。これは大真面目な「ごっこ」だ。「ごっこ」は楽しい。そして、「ごっこ」はルールがあってこそ面白いのだ。

ヨーロッパ風のお喋りティータイムとは随分勝手が違うけれど、黙って感覚を研ぎ澄まし集中することに、こんなにも「安らぎ」があっただなんて。こんなに静かな連帯感があるだなんて。「雄弁は銀、沈黙は金」とはこのことか。自分の中にある和を再発見した気がした。

 

遅く切ったスタート。細く長く続けていきたい。

帰り道は、砂糖菓子みたいにキラキラ点滅するエッフェル塔が目の前に見えた。語学学校に通っていた頃、同じクラスに、この光るエッフェル塔を「泡が弾けるシャンパンボトルみたい」と表現したアメリカ人の生徒がいたっけ。