Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Parcours Révolution

フランス革命に関する覚え書き

 

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珍しく、何度寝返りを打ってみても一向に眠れない。

なぜかと思ったら、夕方遅くにチュイルリー公園沿いのカフェでコーヒーなんぞを飲んだからだ。やれやれ。たかだか一杯。されど一杯。侮れない。

 

そう言えば、作家バルザックは毎日尋常ならぬ量のコーヒーを常飲していたそうだけれど、それは夜通し原稿の筆を走らせるためだったと聞く。そして、そんなに自分を駆り立ててまで書く必要があった理由は、浪費家で、常に借金で首が回らない状態にあったからだとか。

毎日大量摂取する彼にも、カフェインの覚醒効果はあったのだろうか。徹夜状態の頭脳であれだけの作品を大量に世に残せたのは、バルザックの才能を疑う余地は無いとしても、夜という神秘的な時間と琥珀色の飲み物の魔法も功を奏していたのかもしれない。

 

眠くなるのを待ちながら、昼間歩いたコンコルド広場のガイドツアーで学んだことを記しておくことにしよう。

 

フランス革命の際の公開処刑場であったコンコルド広場は、それ以前は「ルイ15世広場」、革命勃発後はその名も「革命広場」と呼ばれていた。王政時代に据えられていたルイ15世やヘンリー4世の立像は、破壊こそ免れたけれど、取り払われて今は無く、その行方も分かっていない。

 

この「公開」処刑というのは当時は非常に一般的で、今日の我々が花火や芝居を観に行くような感覚で観覧席チケットが売り出されていたそうだ。怖いもの見たさなのか、エンターテイメントに著しく欠けた時代であったのか、はたまた、人間の感受性は時代に合わせてそこまで変化するものなのか。謎。

 

そして、その公開処刑の観覧席で「編み物をする女性達」が存在したという逸話がある。人様の死を目の当たりにしながら、驚くべき呑気さだと否定的に理解されがちだが、実際には、彼女達は一瞬たりとも仕事から手を離せられない金銭的な事情があったのだそうだ。当時の女性達が冷徹豪快だった訳ではなく、むしろ労働を課すパトロンへの服従の度合いが伺える一例でもある。

 

ルイ16世の首がギロチンで跳ねられた日 (先日1月21日はその記念日) には、庶民が寄ってたかって地面に残った血をハンカチに浸ませ、高貴な血の恩恵にあやかろうとしたそうだから呆れてしまう。一体どんなご利益を期待していたのか。革命とは名ばかりで、多くの庶民は王という存在に依然として神聖なものを感じていたことを裏付ける。

 

王族の血の付いたハンカチは高値で売れたので、当然のように偽物も大量発生した。この辺りはまさに「人間喜劇」と呼びたくなる。

家に帰って夫にこのエピソードを披露すると、ベルリンの壁が崩壊した時、土産屋がこぞって真偽の定かでない「壁の破片」を売ったのと同じだな と苦笑していた。

 

現在でこそギロチンは残酷な装置のように思えるが、なるべく苦しまずに死に至らしめる手段として、当時はむしろ人道的な発明と見做されていた。斬首は高貴な身分の罪人にだけ与えられていた特権。平民の処刑は絞首刑と決まっていたようだ。

 

一番最初にギロチン装置が使用されたのは、偽金製造の罪に問われた人物だったとか。殺人を犯した訳でもないのに、最高刑とは厳しい処置だ。「幸い、現代のフランスでは死刑が廃止されましたね」とガイドのムッシューが添えた言葉に、思わず「日本は違います」と口を挟みたくなった。

 

因みに、ルイ16世、及びマリーアントワネットの遺体は、野次馬が群がるのを避けるため迅速に「処分」されたという。従って、王家の墓と見做されている現サン・ドニ聖堂に眠るのは、彼らの遺体の一部と「見做されているもの」なんだそうだ。案外いい加減なものだ。

 

今回のガイドツアーの案内人を務めたのは、某大学の歴史科の教授。左の耳たぶに小さなピアスの輪が光っていたから、ひょっとしたら同性愛者なのかも知れない。軽快な小気味良い語り口で聴衆を惹きつける。大勢の参加者が広大なコンコルド広場の真ん中で一身に耳を傾けた。

 

彼曰く、

 

歴史学者の仕事は、先人の残した同じ資料を何度も何度もひたすら「読み返す」こと。

歴史上の事実は変わらない。残された資料も変わらない。ただ、それを読む人間とその時代が変わることよって、新たな気付きがあり、理解が進み、解釈が変わる。そういうものです。

 

心に残った。