Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Lecture & cuisine nocturne

秋の夜長の読書と料理


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今夜も、家族が寝静まった頃、ソファーでの短い読書を切り上げて、明日の食事の準備にとりかかる。

なるべく音を立てずに台所を動き回る様は、我ながらまるで夜行性動物みたいだと思う。

 

炊飯器の中に研いだ米を入れて、その上に南仏産の栗を16コ載せる。こういう時の「数」に関して、私はよく個人的なジンクスのようなものを設けて遊ぶことにしている。水を注ぎ、タイマーを翌朝の7時半にセット。

今年の夏に日本で買った炊飯器は、タイマー装置が付いているところがいい。フランスのチャイナタウンに並ぶなんちゃってライスクッカーに比べて、遥かに優秀だ。頻繁に使わない私には、この「セットする」という行為がいかにもロボティック・クッキングで面白い。ただし、タイマーボタンを押した時に鳴る「キラキラ星」の音調が微妙に外れていていただけないので、押した直後は逃げるように早急にその場を遠ざかるようにしている。そんなことをしてもやはり聞こえてしまうから、我ながら滑稽な姿だなと毎回思いながら。

 

明日は息子の誕生日。

お弁当は秋らしく「栗ご飯にする?」と訊くと喜んで頷いていた。「明日は起きたらプレゼントいっぱい貰えるんでしょ?」と目を輝かせて宣うので笑ってしまう。冗談ではなく本気で言っているのだから、相変わらずあっぱれなあどけなさだ。カエルの子はカエルと言うけれど、我が息子は16の頃の私に全然似ていない。私よりもずっと「かわい子ちゃん」だ。

 

久々に村上春樹を読んでいる。

まともに読書する暇はないので、短編集を電子本にダウンロードして、夜の家事の合間のちょっとした時間に盗むように読む。

それにしても、どうして彼の小説にはこんなにのめり込んでしまうのだろう?取り立ててこれと言った出来事が起こるでなし、派手さのない淡々としたストーリーであるのに。

 

ウディー・アレンの映画に出てくる主人公の男性は、姿形や時代設定が違ってもすべてウディー・アレンそのものであるように、村上春樹の小説の主人公はいつも村上春樹そのもの。そして、何歳になっても「僕」という一人称がこれほど似合う人も稀だ。

ただ、ウディー・アレンが毎回「不思議と女性にモテる」自分役を俳優に割り当て、女優達と想像恋愛を重ねるのには食傷気味になるのに比べ、村上春樹の場合は飽きがこない。そこのところは村上春樹の人としての魅力と、やはりストーリーテーラーとしての腕がモノを言うのだろう。

描写が多からず少なからず絶妙な匙加減で、心地よく淡白。それでいて情景がリアルに目に浮かぶ。

普通の会話をする機会があったとしても、きっとクールでしゃべり過ぎず、熱くなりすぎず、どちらかと言うと言葉少なくらいで正確なところを伝えようとする、静かに魅力的な人であるに違いない。

我ら女性、特にある程度の年齢に達した女性のお喋りというものは、自分も含めて取り留めもなく長くなりがちなので、饒舌過ぎない氏の短編は没頭するに心地良かった。

 

ハルキムラカミを原語で読める喜びは日本人である特権だけれど、次回はフランス語で読んでみようかな。英語の YOU と同様に、「僕」も「俺」も「私」もみんな JE (ジュ) で済まされてしまうムラカミ小説は、少し別物に感じられるだろうか。