Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Dans un café

朝のカフェにて

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クロワッサンとエスプレッソを頼む。

ありきたりなパリの朝食。

 

眠り損ねた昨夜をぎゅっと抽出液にしたような、深く濃厚なエスプレッソが運ばれてきて、コトリとテーブルに着地する。これをすすると眠気が醒めるのは、身体の欲する夜の必要量が、きっとこの抽出液を流し込むことで飽和されるからに違いない。café ではなくて、insomnie と名付ければいいのに。

 

Vous avez de la chance, c’etait le dernier と言いながら給仕の女性が運んできたバターたっぷりの焦げ茶のクロワッサンは、三日月のその名にそぐわず、真っ直ぐに体を伸ばして小さなパニエの中に横たわっている。今朝は慌てて家を出て取り乱したスタートを切ったけれど、こんな時は素直に「あなたはツイている と言ってくれるのだから、今日の私はきっとラッキーなのだ 」と思うことにしよう。1日のスタートを切り直す。

それにしても、かさかさの枯葉の季節にぴったりな外見の食べ物だなと思う。

 

そのクロワッサンを2本指で摘み上げて、ちょっと行儀が悪いけれど、まどろんでいるような熱いエスプレッソの小池に浸してから頬張る。カフェの表面にはうっすらバターの脂が浮く。

 

この、朝からなにやらお腹に重そうな食べ物と飲み物の組み合わせ、黒い飲み物と茶色い食べ物は、パリにとてもよく似合っている。ここで搾りたての目の覚めるような色のジュースと、もぎたての不恰好な林檎が出てきたりしたら、健康的過ぎて頂けないというもの。パリの街に不釣り合いで野暮というもの。

 

ガラス張りのカフェから目にする秋の風景は、お決まりのシックなグレーの空の下、車と人が忙しく行き来して、建設工事の音がどこからか響き、メトロの口(bouche)からはひっきりなしに人が現れたり消えたりする。

 

道路工事の移民のムッシューは、作業の手を休めて、今朝はまだプチデジュネを取っていないからちょっとパンオショコラを買ってくれる と、訛りのある話し方で同僚に大声で告げ、脱いだヘルメットを捨てて小走りに去る。

 

空気は排気ガスで煤けているけれど、年季の入った石造りのオスマン式アパルトマンを見上げ、その間を縫う乾燥した空気を胸一杯吸い込めば、ça c’est Paris これぞまさにパリの香りなのだ。

 

大都会というものは、時々食べたくなるジャンクフードに似ている。

その後にかじる林檎の酸味、素材の味を活かした滋味ある料理、口にする野菜や果物の素朴な味と自然な色形は、いつもにも増して一層健康的で素晴らしいものに感じられる。

ありきたりで忘れがちな自然の素晴らしさを再確認できるように、その対極に位置するように設けられたものが都会なのであろう。

 

自然はママン手料理のようなもの。それを味わって本来の感覚を取り戻してこそ、また元気に、ジャンクでエキサイティングな都会に出て行けるのだ。

 

隣のテーブルでは、50歳を優に超えているであろう男女が向かい合って、間に挟まれた小さなテーブルの存在ももどかしく、身を乗り出して見つめ合い、テーブルの真ん中でしっかり両手を握り合ってなにやら熱心に話し込んでいる。

Ça c’est Paris.

 

帰り際、エスプレッソとクロワッサンを合わせた値段は、オレンジ・プレッセのグラス一杯の値段よりも安いことに気が付く。神の楽園の産物は、人間の手によって生み出されたものより格が一段上 という訳か。

 

財布を開くとちょうどぴったりの小銭があった。それを手渡すと、給仕のギャルソンの口から出るセリフは、

「ちょうど頂戴いたします」ではなくて、

Parfait ! 

別れ際には、

Bonne journée ! 

口癖みたいなものと言ってしまえばそれまでだけれど、私は日常のそこここでのこういったセリフが好きだ。

ビデオゲームのレースの類で、道中に然るべき通過地点を通るとポイントが加算されていくように、日常のあちらこちらに散りばめられたささやかな幸運のポイントを稼いで、心のバロメーターを上げ、また忙しい街に繰り出せる というものだ。