Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Ma petite caille

夫の買い物 其のニ

 

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冷蔵庫を漁ったら奥からカイユ (Caille  うずら) が4羽出てきた。

スズメより大きくて鳩より小柄だ。足を折り畳んでクロスさせた姿勢で、二羽ずつ行儀良く並んで箱に収まり、ぐるりとラップで包んである。羽をむしられて剥き出しになった皮が赤い肉の色をうっすら透かしていて、どこかなまめかしい。

これは夫の買い物。彼は時々こうして料理して欲しい食材を冷蔵庫に入れておく。

 

南仏に住む義理の母は料理があまり好きではないけれど、そう言いながらも毎日のご飯をテキパキと手際良く作る人で、遊びに行くと時々このカイユを旧式オーブンでグリルして振る舞ってくれる。放り込んで焼くだけなので楽だと言いながら。庭に自生しているタイムを香り付けに使う。これがとても美味しい。

 

うずら肉は鶏肉よりも私好みだ。最後は指を使って、細い足を掴んで食べるのが良い。小柄なわたしの手にはこれくらいの大きさの鳥のほうがしっくりくる。鶏肉よりも滋味があり、上品でさえある。うずらに寄せる私の偏愛は、昔見たメキシコ映画「赤い薔薇ソースの伝説」の官能的なウズラ料理が強く印象に残っているせいかもしれない。ついでにフランス語でマ・カイユ (ぼくのウズラちゃん) と言うと、どういう訳か愛情表現にもなる。

 

とにもかくにも、今夜のディネはこれをグリルにしようと思い、オーブンを予熱し、うずらのラップを外しかけて、思わずギクリとして箱から手を離した。桃色のうずらの体の下から、なにか黒くて小さい尖った異物が覗いている。よく見ると、なんとパッケージの上には極控えめに avec tête (頭付き) と印してあるではないか!

裸のうずらは、長く伸びきった首をクルリと体の下に回して隠し、自分の頭を座布団にして座っているような格好で箱に詰められているのだ。体の下から覗いているのは、他でもないその嘴なのである。。。

グロテスクな様に一気に怖気付き、せっかく温めたオーブンの火を消し、うずらの箱は手付かずのままキッチン台の上に放ったらかして、テレワーク中の夫が書斎から出てくるのを待った。うずらの斬首は私にはできそうにない。これは彼の仕事だ。頭付きを買ってきたのは夫だから、ここは責任を取ってもらおう。

 

ラジオ番組を聞きながら野菜の下拵えをしていると、山奥で生活を送る女性ゲストが話しをしていた。植物のアルケミー (錬金術) という本の著者らしい。彼女が山に入ったきっかけは、どこだかの原始林で暮らす民族に興味を持ったのが始まりだったと言う。彼らは自分たちの身の回りで手に入る食べ物や薬草のことを熟知している。今日、都会暮らしの現代人が問い直すべきは、まず Autonomie alimentaire (食における自立) ではないだろうかと語っていた。まったく同感だ。ちょうど日ごろ私がつくづく思っている事だったので、包丁の速度を落としてじっくり耳を傾けた。子供の頃に大好きだった本、「ジャングルの少年」を思い出したりした。

 

もしも私が自分で食べ物を手に入れる生活を送っていたら、今頃うずらの首も捻っていただろうか?あり得ない話ではない。ウサギはどうだろう?今のとことろ、スーパーで頭付きを見ると目を逸らして素通りしているし、肉屋さんに入れば首の付いたものは予め刎ねてもらっている。自分でどうにか絞めることができるのは魚くらいだ。少なくとも、牛のような大型動物を自分で捕まえて食べたいとは思っていなかったに違いない。中型の豚だってどうだか分からない。木の実や果物を探して歩くのであれば、大好きな得意分野だ。想像しただけで心が躍る。植物の知識も、都会暮らしの割には人よりもあるほうだと思う。緑と私は相性がいい。

いつか、自分が食べるものを少しくらいは自分で調達できる暮らしをしたいものだ。

 

結局、今回のマ・カイユは最初から最後まで夫に調理を任せた。頭をちょん切り、マスタードを蜂蜜とバターで溶いたものを塗ってオーブンに放り込む。焼き上がった首なしカイユは、もうちっともグロテスクではなくなっていた。

これもひとつの命。ごちそうさまでした。