Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Une pensée à la plage

黄昏時の海辺にて

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南仏に来てからというもの、本を一冊も読んでいない。南仏どころか、読書の旅と決めた7月のノルマンディー小旅行を例外として、夏休み中は一冊どころか1ページだって読めていない。

 

夕暮れ時の海辺で、久々に昔読んだ村上春樹をめくってみる。エッセイだから、邪魔されずに一章くらいは読めるだろうか。彼が小説家になった過程が描かれている。興味深い。

小石のビーチは、波に洗われて角の取れた丸い石がザクザクしている。それを拾って息子が海に投げている。

 

気になった一節をここに抜粋しておこう。

 

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人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。

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基本的に、人生計画を立てるのに「誰か」の存在を当てにしてはならないと常々思っている。人の感情は移ろうもの。それが生きている証拠なのだ。人間関係は変化する。それが面白くもあり、厄介でもある。

 

身の回りの親しい「誰か」と言えば、親というものは大抵自分より先に他界してしまうし、そうでなければ逆に不幸だ。手塩にかけた子供も成長して、やがては親元を離れる。そうでなければ困ってしまう。

男女の関係なんていうのは最も当てにならない。恋愛関係は不安定の代表であるし、夫婦なんていうのも、家族になったつもりでいても元を正せば他人だから、やっぱり当てにならない。そう思うと、不確かな人間関係のうち、友情というのが一番確かかも知れないと思うけれど、相手の家族への遠慮もあったりして、それを頼りにし過ぎる訳にもいかない。

 

では何に焦点を当てて生きていけばいいのかと言うと、「誰か」ではなく、もっと不動の「何か」なのだろう。

 

そう意識しているにも関わらず、現在、私の日々の生活の優先順位は、一位も二位も息子で、エネルギーと時間は丸ごと彼に注がれている。それはそれで幸せなことなのだと思うけれど、「何か」ではなく「誰か」に焦点を当てた生き方は、どうしたって落ち着かず、時として自分がないがしろになる。

 

世界中の多くのママンの悩みは、そんなところにあるんじゃないかしらと時々思う。