Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Qu’est-ce qu’un adulte

自分が大人になってみて分かったことだけれど、

 

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いい年の大人であるというのは、同時に幼児であり、子供であり、思春期であり、若者であり、そして現在の姿の大人であるという事だ。

 

子供の頃は、人というのは変身を遂げて大人になるのだろうとなんとなく思っていた。子供の姿心を脱ぎ捨てて、まるで脱皮でもするように。さなぎが蝶に生まれ変わるように。別のものになるのだという気がしていた。

ところがひとたび大人になってみると、それは、木の年輪のようにこれまでの過程を一つ残らずしっかり内包していて、ただその一番外側の部分が大人の見かけをしているだけなのだと分かった。ロシアの入れ子人形のような感じだ。どの人形も、芯をなしているのはいつだって一番小さなマトリョーシカなのだ。核にある小さな姿は、大きくなっても、たとえ隠れてはいても失われはしないのだ。

 

もちろん、中には自分の内側の年輪の存在をすっかり忘れてしまう人、あるいは、一見忘れてしまったかのように見える人もいるだろう。それとは逆に、一番外側の自分の姿を忘れてしまう人もあるだろう。そういうところが大人って面白いなと思う。子供は子供でしかあり得ないけれど、大人は子供にだってなり得る。

 

息子を見ていると、夫の構造をようやく垣間見た気がする時がある。男の子だからということをいくら念頭に入れてみても、どこからどう見ても息子は私とタイプが違う。息子について、私にとっては不思議でしかたがない事、理解不可能である部分を夫に話すと、頷いて賛同してもらえるどころかボソッと「俺も子供の頃そうだった」と返事が返ってきて、危うく食事を喉に詰まらせそうになったり、椅子ごとひっくり返りそうになった事が幾度となくある。現在の彼の「姿」からはとてもそんな様子は想像もつかない。そんな話を聞かせてもらったこともない。なにしろ子供っぽいことが苦手で、まるで初めから大人だったような顔をしてすましているけれど、実はこの人の構造はこうなっていたのね!と、今更のように発見して、空いた口が塞がらなかった。言葉を失って完全に停止している私を他所に、本人は相変わらず素知らぬ顔で皿の上のステーキを口に運んで黙々と咀嚼していたりする。ケッコンする前に質問表でも作って、もっと幼少時代について情報収集しておけばよかった。子供ができた時の一つの強力な「傾向と対策」になっただろうに。カエルの子はカエルなのだ。

 

それにしても、人が入れ子人形式に大人になるのだとすると、おじいさん、おばあさんというのは、全てを内包しているスーパーマトリョーシカということになる。人間が楽器であったなら、一番音域が広いのだ。赤ちゃん、幼児、子供、思春期、若者、成人、中年、熟年、その全ての音色を持ち合わせた存在なのだから。その中のどの音階を中心に音楽を奏でるかで、その人の在り方や周囲に与える印象が違うのだろう。選択肢が多いのは素敵なことだ。

 

大人になってみるものだ。