8月15日、聖母マリアの被昇天祭。
キリストの母、マリア様が天に召された日。一種の母の日のようなものだと勝手に解釈している。
それにしても時々思うのは、敬虔なカトリック信者の人たちは、聖母の処女説を信じているのだろうか?それとも、その辺りは語られないお約束なのだろうか?
伝説(架空)と現実とは、今日の世の中でも、案外、見境なく繋がっているものだなと思う。過ぎた事はどうにでも料理ができる。その自由は科学も制限できない。想像力ばんざい!
日曜で、その上祝日なので、商店は全て閉まっている。更に猛暑とくれば、食事以外に特にする事がない。
昼食の後は、雨戸という雨戸を閉じて外界の熱気をシャットアウトし、薄暗がりでだらんとして日暮れを待つ。先春に経験したロックダウンに少し似ている。こうして私達がひっそりと息を潜め、微睡んでいる間に、人気のない外界では鮮やかに植物が茂り、小動物が羽を伸ばしているのだろう。庭のイチジクよ、午睡のうちに鮮やかに色づけ。
暇ついでに、昨夜、ようやく持参した本を読み始めた。ユゴーの Les Misérables 。それにしても、和題の「ああ無情」はつくづく素晴らしい翻訳だと思う。
子供の頃に厚手のジュニア版を読んだけれど、完全版は更に分厚い。寝っ転がって読むには重いのが玉にキズだ。「電子版にすればいいのに」と夫や義母には言われるけれど、じっくり読みたい小説については、私は紙媒体の方を俄然好む。ヴァカンス中とは言え、テレビやニュースが始終大音量で響き渡り、息子は頻繁に邪魔に入り、なかなか読書のタイミングが見つからない。来年のヴァカンスまでに読み終わればいい というくらいのスタンスで、気長にいこう。
昨日読んだ触りの部分は、ビヤンヴニュ司祭の日々の生活と、その人柄の詳細な描写で占められていた。そこに、当時のユゴー自身の世間への眼差しが見え隠れする。
3年前、何を血迷ったか、息子が学校の国語の時間にユゴーの発表をすると立候補した。その準備を手伝わされて以来、以前より氏に親しみが湧くようになった。
更に遡ること数年前、「面白かったから読んでみて」と、母が日本から持参した鹿島茂氏の本で、ユゴーの人柄の下知識もある程度付いていた。
そんな訳で、当時のフランスの社会状況も、ユゴーの人柄も、まるで知らずに読んだ子供時代とは、また一味違った読書になりそうだ。
年は重ねてみるものだ。原石にカッティングを施していくように、時と共に新しい面と光の反射が現れるのだから。
清貧の美を文字通りなぞらえたようなビヤンヴニュ司祭の生活は、猫の額程度の庭の手入れと、読みもの書きものが日課。それを司祭は押し並べて「jardiner (庭いじり)」と呼んでいる。知性も庭とみなすからだ。"L'esprit est un jardin"
手入れをする庭いじりもあれば、逆に、放っておいて茂るに任せるという策もある。ヴァカンス中の「庭いじり」は、明らかに後者のほうだ。休暇という肥料をやり、あとは自然の采配に任せる。
怠け者のヴァカンス。幾度もの夏の夜の夢の間に、一体何が育つかしらん。