Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Magie verte

緑の酒

 

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シャルトルーズという名のお酒がある。

130種以上もの植物を使った美しい緑のリカーである。その昔、薬草園のあるフランスの修道院にて、修道士達の手によって生まれた。

フランス革命時代に国王の庇護を受けていた教会や修道院は迫害に遭い、シャルトルーズの酒造法も末梢されたかのように見えたが、その後密かに再発見され、今もなお修道院にて製造され続けている。レシピは依然として門外不出。時を経てなお秘密のベールに包まれている。

 

家にあまり早く帰りたくない理由があったので、サンジェルマンデプレに用事があったついでに老舗カフェに立ち寄り、カフェを頼もうとしたのをふと思い直してシャルトルーズを注文してみる。緑の酒は大抵メニューには載っていない。この街に住んで20年近い年月が経って、我ながらパリ上級者になったものだなと思う。

目の前のテラス席には、仕立ての良いスーツに身を包んだ上品なムッシューと、パリジェンヌ然りの洒落た女性が陣を取っている。彼女は彼の背中を背広越しに赤いマニキュアの塗られた手で撫でながら、時々周囲の様子を伺っている。午後の密会かしらん。

 

美しき緑の酒はとても強くて、グラスを口元に持っていくだけで鼻に届くアルコール臭でむせ返りそうになる。愛想の良いギャルソンに持ってきてもらった水 (パリの水道水) を足すと、グラスの中で、まるで突風にそよぐ森の草ぐさのような緑のどよめきを起こす。魅惑的である。花曇の明るい午後のカフェには場違いなほど酔っ払ってしまいそうだ。

 

さっき昼頃に視聴した、とある文学トークウェビナーの内容をぼんやり思い返す。

幻想文学の新鋭作家の女性が、人間の身体性について話していた。「身体を持たないものは果たしてこの世界をどう感じるのだろう?と想像するけれど、とても想像がつかないのが残念」と話していた。

ボーボワールとかヴィアンとか、昔この場所に集って朝な夕なに議論していた文学者達は、身体を無くした今、どこを漂い、何をどう感じているのだろう?と考える。ほろ酔い気分で。

 

 

Intelligence artificielle

日々の生活と人工知能

 

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家事をしながらよく音楽を聴く。

スマートフォンで気に入りの曲を入れたプレイリストを作って流していると、リストの最後の曲が終わった後も沈黙にはならず、AIシステムが勝手にセレクトした曲が次々と流れる仕組みになっている。

仮にAIをアイコさんと呼ぶことにすると、頼んでもいないのにアイコさんが私の好みを推測してプレイリストの続きを作ってくれる訳だ。

アイコさんの選ぶ音楽は、私が知らない曲も多くある。アイコさんのチョイスはハズレることもあるけれど、時々なかなかのヒットがあったりもする。セ・パ・マル (悪くない)。

 

先週末の朝、私より早起きした息子が朝食にスムージーを作ってくれた。料理は覚えたがらない彼だけれど、スムージーはマシーン(ミキサー)を使うのが面白いらしく、嬉々として作る。料理は好きだけれど、マシーンを使うことには大した魅力も感じない私と正反対だ。

使った後のミキサーが、ちゃんと洗って水切りラックに入れてあったのは嬉しい驚きだった。「母親冥利に尽きる」というのはこういうことかしら。「使った後はすぐ片付ける」と口を酸っぱくして繰り返している甲斐があった。

 

その上、今回は手書きのメニューまで作った。見るとスムージーの名前がずらりと書き連ねてある。それもSunshine boost  だとか、Fruity Bliss だとか、名前もずいぶん小慣れている。極め付けは Fruitastique Royale。バナナとリンゴとレンヌ・クロード(クロード女王と呼ばれる緑のプルーン) 入りのスムージーだ。自分で思いついたネーミングなのかと訊ねると、黙ってニヤニヤ。種を明かすと、チャットGTPを使ったのだそうだ。アイコさんとの共同作業が彼にとってはすこぶる楽しいらしい。

 

そう遠くない未来に、ドラえもんや鉄腕アトムのような友達ができる日が来るのかな?なんて思ったりしている。

 

(写真は夏休みに東京で足を運んだデビット・ホックニー展のデジタル絵画)

 

 

Chacun sa rentrée

ママンの新学期

 

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9月

長い長い夏休みが終わり、いよいよ息子の高校生活がスタートし、私は今日から自分のライフワークの一つを再開した。

指折り数えてみたら、実に8年間のブランクを経ての再スタート。いつから時間はこんなに速く流れるようになったのだろう?

時の流れは、時計が示すような一定のリズムを保ってはいない気がする。時計やカレンダーは、便宜上の人類共通の目安に他ならない。実際には一つ一つの生き物に固有の時間があって、それは自在に伸びたり縮んだりするのだ。私の8年間のブランクは、気が遠くなるほど長い一瞬だった。

 

初日の今日、久々に、恩師であり友でもあるマリリンのアトリエに足を踏み入る。

マリリンに初めて出会ったのは10年前のこと。小柄で、歳もあまり違わないベビーフェイスの彼女とは、初めて目と目が合った時から仲良くなれそうだという直感があった。そしてその勘に間違いはなかった。

 

その翌年、私は母を亡くし、命には限りがあること、時は刻々と流れているのだということ、そんな当たり前の事を今更のように強く意識した。母の存命中に娘の活躍ぶりを披露することが無かったのを悔やんで、その日を堺にクリエーションに邁進しようと決心したのだった。マリリンは、そんなこんなの相談に乗ってくれた友人の一人だった。

 

さらにその翌年、今度はそのマリリンが体を壊した。それを知らされた時、当人の方が辛いのに、不覚にも私が泣いてしまったことを覚えている。

その後、私は家のこと息子のことで他の事にはとても手が回らなくなり、クリエーションどころではなく、アトリエに通い続ける余裕もなく、気が付けばあれよあれよと8年という月日が過ぎていた。

 

そして今日。すっかり回復した、いや、以前よりもパワーアップしたマリリンの姿を目にして、「色々あったけれども、お互いによくここまで来たね」と心の中で思った。

時間はいつだって私たちの味方。前進あるのみ。

 

さて、新たなアトリエのメンバーは8人の女性。

隣に座っていたステファニーは横浜に住んでいたことがあると言う。親日家の55歳。「だからあなたに会えて嬉しいわ」と人懐っこく笑う。目元にくっきりと引かれたアイシャドウがお洒落で素敵。日本では、自宅でフランスの家庭料理教室を開いていたとか。しなやかでバイタリティーのある女性だ。

 

反対隣に座っていたマリオンは、明るい金髪おかっぱ頭で可愛らしい人。2才になったばかりの女の子がいるらしい。ボルドー出身の35歳。室内建築家として働くワーキングウォーマンだ。小さい子供がありながら、仕事も趣味も卒なくこなせるママンもいるのだと感心する。同じ女性として誇らしいやら、眩しいやら。

 

それにしても、彼女たちと話していて面白いなと思ったのは、初対面のお喋りで自から自分の年齢を言うところ。しかも、もう何歳、まだ何歳 といった意味合いも特に込めず、実にさらりと年齢を告げる。カッコいいなと思う。

 

向かいに腰掛けたクルクルヘアーのクレールは、会話の合間に離婚歴があることを公然と明かす。ユーモアを込めて。

「モン・マリ?(私の夫?) 私の作品に文句を言うから、そんな奴はお払い箱にしてやったの」

みんなで笑った。

 

私はと言うと、家で息子と日本語でばかり会話しているせいで語学力がすっかり衰えていたので、フランス語で芳しくさえずる女性陣に囲まれるのが新鮮だった。

そう、語学の上達に必要なのは、パソコンに釘付けのマリ(夫)ではなく、お喋りなコピンヌ(女友達)なのだ。お喋りが進んだついでに、肝心の手作業のほうはあまり捗らなかったけれど。

でも、それでいいのだ。ガウディも言っていたではないか。時間がかかるのは良いことだと。焦るのはやめた。ゆっくり進もう。

 

 

Aurevoir Tokyo

ずいぶん長いこと日々の記録を書かなかった。

 

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1ヶ月ちょっとの里帰りを終えて、明後日のフライトでパリに帰る。

毎日体温と同じくらいの気温で、最高にホットな東京。一方、パリの7月は、今年はとってもクールであったらしい。晴れ女の私が、パリの太陽を東京に連れて来ちゃったかな?

 

友人Rちゃんと会った帰り道、見上げた夜空に丸い月。明日あたりは満月かしら。すっかりよそ者となった今、この街の空に張られた電線が、まるでサーカスの綱渡りのロープのように目に映るから面白い。

 

ふと思った。今日のRちゃんといい、昨日WhatsAppで久々に話したソニアといい、先週末に精進料理の会に誘ってくださったHさんといい、私の周りは前向きで素敵な人が多い。元気をくれる人達に囲まれているのは幸せなことだ。彼女たちの口から出たポジティブな言葉は、何処かから私に向けられたメッセージなんだろうな、ちゃんと受け取らなくちゃと思う。

 

今夜はこれからトランクを詰める。毎年のように、入りきれない本は船で郵送する予定だ。去年と違うのは、今年は本の隙間に野草茶のパックを幾つも詰め込むところ。ヨモギとか、スギナとか、柿の葉とか。にわか牧野富太郎の気分。日本とフランスの薬草事情を(飲み)比べてみたいと思っている。

 

荷造りの日はいつも夜更かし。

でも今夜はきれいな月も一緒。

 

 

Mois de lièvre

花曇りの朝

 

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散歩がてら駅までカバンの重い息子を送った帰り道、ゆっくり坂道を登る。

音楽を聴きながら。ここ数日なぜか頭の中に繰り返し流れるのは、ザ・ポリスのEvery breathe you take のメロディーだ。

 

音楽はいつも向こうからやって来る。こちらが選ばずとも、どこかで偶然耳にした曲が頭を離れなくなったり、何かの拍子に不意に頭に浮かんできたり。きっと音楽は「頭」の産物なんだろうな。それが「心」を掴んだり、癒したりする。

 

取り立てて mélomane (音楽愛好家) を名乗れるような身ではないけれど、洋楽とジャズに詳しい夫には「おまえは何にも知らない」と笑われるけれど、それでも、音楽と私は極親密な関係にあるのだと思う。日々の気分に寄り添い、盛り上げ、たくさんのピンチも救ってくれた。

たとえ多くの曲の名前を知らなくても、それがその場に流れていなくとも、頭の中に常に音楽はある。何も聴かずに鼻歌を歌う人こそ、きっと隠れた真の mélomane なのだとこっそり思っている。

 

教会の横に立つ遅咲きの八重桜の前を通る。

何を思ったか、誰の仕業なのか、去年バッサリと大半を斬り捨てられて、救いの腕を伸ばすように枝一本のみ残す姿となってしまった。歩道に散る花が通行人の邪魔だというのか。心無い解釈だと思う。それでも濃いピンクの花が満開で健気だ。

 

家に着いてドアを開け、小脇に抱えていたバゲットをキッチンに持って行き、耳からイヤホンを外して、居間の東向きの窓を大きく開け放つ。賑やかな鳥のさえずりが耳に届く。アパルトマンの小さな庭の緑が目に眩しい。梨の木は白い花を咲かせている。

私を幸せにしてくれる一番の音楽は、きっとこの小鳥たちの朝の囀りだろうな と思いながら、胸いっぱい深呼吸する。

いつか森の近くで暮らしたい。私は毎朝とても幸せに違いない。

 

昨日の月曜はイースターの祝日だった。

息子は今でも「卵狩りがしたい」などとのたまう。考えてみたら、小さな子供向きのお楽しみイベントは多いけれど、ティーンネイジャーになった途端に「もう恥ずかしい」という理由で外されてしまう。自ら「もう恥ずかしい」モードになる子供たちはいいけれど、なかなかそうならない子供たちも、「もう大きいから」と指をくわえて見ているしかないのかな?

 

夫は冷蔵庫から仔羊の肉を出してきて、仔羊はパック(Pacques/イースター)の食べ物で、「パスカルの仔羊 (agneau Pascal) と呼ぶんだ」と、したり顔。彼がカトリックの風習を気に留めるのは極めて珍しい。15年以上一緒に暮らしているけれど、パスカルの仔羊なんて初めて聞いた。きっと偶然買って冷蔵庫に入れていただけに違いない。彼の従兄弟の1人に、ちょうどパスカルという名の堅気な裁判官がいる。夫の手にした仔羊の肉を眺めながら、「裁く」パスカルが「裁かれた」パスカルになったのね と返事をすると笑っていた。

 

せっかくのイースターなので、本棚から、昔読んだウサギの出てくる絵本を取り出してきて居間に飾る。絵が美しい。

絵本は子供だけのものではないと思う。大人は大きくなった子供であるし、子供はこれからの大人なのだから。

 

ついでに、先日近所の本屋で見かけて衝動買いした「ウォーターシップダウンのうさぎ」の小説を、この機会に読み始めようと思い立つ。

レジに持って行くと、店員の男性が「僕もこの本好きです」と話しかてきた。よく行く本屋なので顔見知りではあるけれど、控えめで、それまであまり会話をしたことのない人だったので印象的だった。私は「子供の頃に日本で一度読んだけれど、当時は幼過ぎたのか内容はよく覚えていないんです」と答えた。読み甲斐のあるお話だったことだけは記憶している。

 

卯年の卯月。

卯月の卯は「卯の花」を指すそうだ。

兎の卯でもいいのにな と思う。うさぎ年生まれの私としては。

 

 

 

Douce avril bien frais

4月4日の昼下がり。

 

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陽射しはすでに暖かく、風はまだ冷たい。

明るいお日様に絆されて表に躍り出てはみたけれど、思いのほか寒冷な空気に当たって、軽く羽織ったコートの前をしっかり合わせ直す。それでもマフラーはもうしない。だって4月ですもの。

 

春はそれだけで喜びに値する。

街路樹の新緑がキラキラと目に眩しく、木々は枝先に黄緑の炎を灯した燭台のように見える。幸せな光景だ。

友人アデルに教わってからこの頃よく聞いているラジオ番組 Les pied sur terre で、先日、「美は世界を救うか」というテーマのルポルタージュを流していた。Quelle question ! と思いながら耳を傾けた。

考える以前に答えはとっくに出ている。こんな麗らかな春の日などは特に明白だ。少なくとも私は日々この世の美しさに癒されている。

 

散々物議を醸していた清掃業者のストライキは、ようやくひと段落したようだ。すっかりゴミに埋もれてマルセイユのようになっていたパリが、再び華のパリたる姿を取り戻しつつある。

それにしても、古のパリは悪臭漂う町だったそうだけれど、下排水の問題は解決したにしても、それに代わって現代の私達の廃棄物の多さといったら!ストライキ中のパリは、丸ごとゴミの展覧会のようだった。社会学的に見ると面白い光景。ただえさえ狭い歩道に、日々堆く積み上げられていくその量には目を見張った。そのうち、ゴミの山の底から得体の知れないベトベトしたモンスターが這い出てきそうな、どこかSFチックでシュールな光景。この街がロマンチックなのは、一重に清掃業者達のお陰なのだ。

 

さて、

近況と言えば、過ぎたる立春の日から野草について学び始めた。これがとても楽しい。

思えば、都会でロックダウンを経験したのを機に、植物への想いが徐々に抑え難く膨らんだような気がする。

先日ブーローニュの森で摘んだチャービルをたっぷり刻んで煮込んだミートボールは、香りよく格別に美味しかった。

バスケットを片手に近郊の森に足繁く通う春になりそうだ。

 

写真はアデルの目に映った光景。つい先ほど出掛け先から送ってくれたSMS。彼女も春の陽気に心躍らせているのだろう。「こういうのを見るとMihoのことを思う」とのメッセージ。嬉しい。

私の緑好きは、どうやら友人たちの間で既に周知の事実となっているらしい。それも悪くないなと思っている。

 

 

Mars, dieu des combats

早くも3月

 

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ちょうど一週間前に買ったナランキュラスが、寒さのせいで長持ちしている。ひらひらの花びらがいっぱい。見目麗しい。

 

毎日書き留めておきたいことがたくさんあるのに、それを言葉に変換している暇がない。

毎日起きて、一日3回台所に立ち、買い物片付け子供の世話、その合間を埋める取るに足りない雑用の数々。一晩寝て起きて、次の日もまた同じ繰り返し。判を押したような日々ってこういう事を言うのね と、ある朝目覚めて天井を見ながら思った。自分がそういう日々の過ごし方をしているなんて、なんだか悔しい。

生活するって大変だ。家事はいくらやっても積み重ねにならないから嫌い。

ママンって大変だ。自分の子供の面倒を見るのは、いくらシャカリキにやっても仕事とは見做されない。本を読む時間もない。

同じ屋根の下に暮らす家族のためではなく、他所で人様の役に立つことをするのが「仕事」と見做される世の中は、ひとえに資本主義と呼ばれるお金にこそ価値の見い出されるシステムのせいなんだろうな。

 

フラストレーションからか、なかなか去らない冬の寒さのせいか、異常に食欲があるこの頃。こう寒くては、食べて自家発電するしかない と自分に言い訳して、昨日は食後のデザートにフランボワーズのロールケーキを2つと (一つは夫用に買っておいたにも関わらず)、特大パンオショコラをひとつ、いっぺんに平らげた。最近は甘党でなくなった筈なのに。

近所に新しくできたブーランジェリーのウィンドウに、セクシーなガトーがいっぱい並んでいるからいけないのだ。グレーの季節はこういう誘惑に抗えない。

かわいい女の子達に囲まれて、思わず鼻の下が伸びて右に左にちょっかい出したくなる男の子の気持ちって、きっとこんな風なんだろうなぁなんて想像しながら、バゲットだけ買う予定だったのに、艶々でお色気たっぷりな林檎タルトや、黄色いカスタードクリームのはみ出した思わせぶりなミルフィーユなんかにすっかり目を奪われ、気付くといくつも注文していたりする。まるで催眠術にでもかかったように。

 

さて、

最近起こった大小様々な出来事の中で、特筆すべきは、なんと言っても先週末の息子のイニシエーションだろう。

過ぎたる2週間の冬休み中、あまりにも動かない息子に呆れ果て、疲れ果てて、「ねえねえ、一度くらい率先してお手伝いとかママンの喜びそうなことをしてくれてもいいんじゃないの?」と大いに憤慨したところ、洗濯機から洗い立ての洗濯物をカゴに取り出して持って来た。それだけのことだけれど、自主的にやったのは初めて。小言を言ってはみたけれど、全く期待はしていなかったので目を丸くした。

少し大袈裟に褒めたところ、翌日の朝、目覚めると枕元に茶色いバナナスムージーが置いてあった。チョコレートムースと見紛うその色は、シナモンをどっさり入れたせいらしい。飾りに付けた輪切りのバナナがいかにもぶきっちょで、可笑しいやら可愛らしいやら。

好評に応えて、その翌日の朝は苺とバナナのスムージーが置いてあった。涼しげなミント水も添えて。本当は温かい朝ごはんが欲しかったのだけれど、勿論そんな野暮なことは言わない。苺はちゃんと洗ったのかしら?と思ったけれど、それも言わない。感謝して胃袋に収めた。

ごちそうさまでした。

 

まったく、ものは要求してみるものだ!

望めよ さらば与えられん

 

 

それにしても、くだらない雑事だけでエネルギーを消耗してしまう日々が続いた。私らしくない。

奮闘せよ!さらば得られん