Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

réflexion sur les couverts

フォークとナイフに関する考察

 

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いつか、インテリアの店で食器を物色していた折に、一緒にいたジゼルに聞かれた事がある。

「あなた達はまだ箸を使っているの?」

「まだ」という表現に苦笑した。

フランス人の彼女にとって、箸は「不便な道具」ということらしい。

 

フォークとナイフは、切って刺す道具。

かたや、箸はつまむ道具。

 

狩猟の民と、農耕の民。それぞれの民族の歴史がよく反映されている道具なのだと思う。

 

ジゼルの職業は外科医で、食卓のみならず仕事でも常にナイフ(メス)を手にしている人。それだから、そんな風に考えるのも仕方ないのかも知れない。

その上、彼女は私より1世代年上で、普段は南仏のマルセイユに住んでいる。最近では、特に若いパリジャン、パリジェンヌの間では、フランスでも箸を上手に使う人がぐんと増えたけれど。

 

因みに、私はいわゆる西洋風のサラダを箸で頂くのが好きだ。そちらの方が、ナイフとフォークをカチャカチャいわせるよるもずっと具合が良く、粋だと思う。フランス人の好きなバタビアのサラダなんかも、折り畳んだり押さえつけたりせずとも、クチバシの長い鶴の気分で、ひらひらの葉っぱも傷ひとつ付けず優雅に摘めるもの。

 

くだんのジゼルは、次に中国産のボーンチャイナの湯呑みを手に取って眺めた後、「それにしても、西洋のカップの とって ってのは、もっともな発明よね。この湯飲みでは、お茶を入れても熱くて持てやしないもの。」

 

四千年もの歴史を誇る仙人の国、中国では、湯呑みに注いで手に持てないほど熱いものは、きっと飲むことを勧めないのに違いない。とってのない茶碗は、つまり、手にしても火傷しないくらいまで冷めるのを待ちましょう という知恵のような気がするのだけれど。

ヨーロッパに初めて東洋の茶が伝わった時代、人々はやはりとってのないティーカップを使っていた。熱いティーを啜って火傷せぬよう、カップのお茶をその受け皿にこぼして、受け皿から飲んでいたようだ。受け皿のお茶は、寒冷なヨーロッパでは冷めすぎていたに違いない。そこへ来て、カップに取っ手を付けるようになったのだろう。

 

ジゼル。

名前に2つも濁音が付くのが、私にとっては新鮮だ。出会った当初、時々しか会うことのない彼女の名前がなかなか覚えられなかったので、濁音がいっぱい付いた名前 と記憶することにしていた。

日本の大学時代の友人に、しげちゃん という人がいて、苗字ならともかく、点々が付く女の子の名前って耳触りが面白いな と思ったものだけれど、ジゼルの場合はそれが2つも付くのだから。

 

誤解のないように言っておくと、夫の遠い親戚に当たる彼女は、決して嫌味な人でも、ヨーロッパ至上主義者な訳でもなく、極めてサンパティックな(好感の持てる)女性である。博学で好奇心が強く、南米の植物にとても詳しく、記憶力が抜群で、おしゃべりで、話し出したら止まらない。

思ったことをオブラートに包まず口に出すので、時々苦笑させられてしまうのだけれど。