Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Dans ma forêt amazonienne

本についての話。

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大学生の頃、シアトルに住む父の友人一家を訪ねたことがある。その、私が「ジムおじさん」と親しみを込めて呼んでいた父の友人には、レナちゃんという可愛らしい娘さんが居て、私より5歳年下の当時16才だった。レナちゃんは生まれも育ちもアメリカで、その体に流れるのは純粋な大和撫子の血でも、ジェスチャーや話し方、考え方、そして不思議なことに顔つきまでもが日本人離れしていた。ロックミュージックに目が無いアメリカンなティーンエイジャーは、すでに思春期を後にしていた私の目に新鮮だった。

レナちゃんは、コレクションしているCDを何枚も出してきて、洋楽に疎い私にお勧めの曲を次々聞かせてくれた。例えば The Cranberries を発見したのは、確か彼女のお陰だったと記憶している。

そして今でもよく覚えているのが、将来の夢の話になった時のこと。真剣な面持ちで「CDをもっとたくさん買いたいからお金を稼がなくちゃ」と言っていたこと。

人によっては何の変哲もないセリフと受け取っただろうけれど、私にとってはとても印象的だった。まず、16才という年齢にして将来の夢が「CDをたくさん買いたい」というのが、純粋で微笑ましいような、拍子抜けして笑ってしまうような。当の私は物心ついた頃から結構こまっしゃくれたオマセな性格だったので、将来の夢を語るのに 何かを買いたい という単純な発想は、小学生の時だってまず有り得なかった。同じティーンエイジャーの頃の私が単に大人ぶっていただけで、彼女は年齢相応なのか、それとも、彼女が私を相手に英語ほど得意ではない日本語で話していたために、表現が心ならず稚拙になってしまったのか、はたまた、そのあどけなさが彼女独特の持ち味なのか、そこの辺りの見分けが付かずに考えあぐねた。どちらにしても、ずいぶん幼くてかわいらしいんだな と、びっくりしたものだ。

 

ところが、

分別というのは一度付いた後に、またなくなる事もあるようだ。

レナちゃんを相当幼く感じた私であったくせに、それから20年も経った今頃になって、本気で「もっと本が買いたいからお金を稼がなくちゃ」と思ったりしている。私にとって本のある無しは、20年前のレナちゃんにとってのCDのように、ほとんど死活問題に等しいのだ。

 

世界中の人々がこぞって外出制限を余儀なくされているこんなご時世なので、皆、本を求め、ネット上のアマゾンの森は売り切れ在庫切れのオンパレード。唯一、電子ブック版だけは容易に手に入るのがせめてもの救い。本はそれだけ現代人にとって必要不可欠な存在になっている。

それにしても、豊かさというのが、何かを沢山持っていることではなくて、逆に「無いこと、持たないこと」に表象される時代が到来しようとは、遠い過去の人達は果たして想像しただろうか?カラ(空)であること(ヴァーチャル)が最先端の贅沢だなんて、大昔の人達は想像だにできなかったのでは?

ある時蓋を開けてみたら本当に何にも無くなっていた!なんて、悪い冗談の様な事にいつかならないだろうかと思うのは、私だけだろうか。

 

私の自由が効く時間の量と反比例して、読みたい本リストは長くなる一方。高校生のレナちゃんのあどけなさを通り越して、「読みたい本がたくさんあるから、うーんと長生きしなくちゃ」と本気で思ったりするこの頃の私。