慈悲深いパン
夕刻の買い物帰り。
いつものブーランジェリーでバゲットを買い、まだ温かいそれを息子に持たせて坂道を登っていると、「なんだかこのパン、顔があるねぇ」とのたまう。覗き込むと、確かに。
紙袋からはみ出した頭を、ちょっと横に傾げている。表面に入った小さなヒビが、ちょうど目鼻口に見える。垂れ目で情けない表情、いや、慈悲深いお顔をしていらっしゃる。
そういえば先日、ドイツ発祥のクリスマス菓子、シュトーレンは、実は生まれたばかりのキリストをお包みに包んだ姿を模しているのだと聞いたばかり。先日お茶をしたキャロリーヌの家で、そんな事も知らず、ミニシュトーレンをパクパク頬張って幸せなひと時を過ごしたばかりだった。
そもそも、パンはキリストの体、ワインは彼の血と言うではないか。ノエルが近付き、息子が手にした慈悲深いパンは、幸福な年末を願って私達に微笑んでいるのに違いない。そういうことにしておこう。
ところで、
期が熟すという言葉があるけれど、私は最近、2014年に買ったっきり今まで手を付けなかった本をふと読む機会に恵まれ、その内容に大いに感化されている。ひょんなきっかけで、友人アデルも一緒にこのフィーバーに乗り、同じ主題の本を交換しては2人して悦に入っているところだ。
面白いのは、申し合わせた訳でもないのに、最近アデルも同じような本に夢中になっていたこと。偶然にも、私の本の続きを彼女が持っていて、彼女の本の続きは私が持っていた という具合。
彼女に借りた本を開くと、最初のページの上のところに鉛筆で日付と場所が記されていた。
Paris 12 janvier 2021Place Lino Ventura
今年の初めに入手したのだな と、パリの書店にいるアデルの姿が目に浮かぶ。
私の母も、よくこうやって本に日付を残していた。私が子供時代に夢中になった本にも、端っこに彼女の筆跡で日付が残されていたりする。その短い「刻印」が、いつ、何歳の時に、どんな思いでその本を読んだのか、思い起こす格好のキーになるのだと気付いたのは、つい最近のことだ。
今年は、機が熟した読書を経験してからというもの、少なからず人生に対する意識が変わった。同じ本を、後に読んでも先に読んでも、きっと同じ影響は得られなかっただろうという気がする。
そんな特別な冬を過ごしている。