カボチャの花 後日談
我が家に一輪だけ咲いたカボチャの花。昨日バルコニーに出てみるとそれが見当たらない。
萎れて葉陰に隠れてしまったかな?
葉っぱの下を覗いてみても見付からない。
影も形もない。
黄色の「き」の字もない。
あれはまぼろしだったのか?
ある日パッと現れたように、今度はパッと消えてしまった。手品のように。
狐に摘まれたような気分だ。
確かにここにあったのに。大きく鮮やかな黄色い花が咲いていたのに。
相当がっかりだ。ちょっとしたミステリーだ。
顔を近づけてよくよく葉陰を観察すると、微かに、花の付いていた茎が根こそぎ奪われた形跡がある。
ははーん、息子の仕業だな。まったく男の子というのは心無き生き物だ。
ところが息子は ぼく、そんなことしてないよ と真顔で首を横に振る。疑われて少し気を悪くしている様子。嘘をついている訳でもなさそうだ。
それでは一体誰が?
数日で完膚なきまで食べ尽くされて、すっかり葉脈だけになったイチゴの葉っぱが目に入る。ナメクジの仕業だろうか?
カボチャの花も、お腹を空かせたナメクジが大口を開けてペロリと平らげたのだろうか?それも一晩で。一匹で独り占めしたのだろうか。それとも、晩餐会を開いて「これはまたと無いご馳走!ありがたいありがたい」とかなんとか言い合いながら、大勢でムシャムシャ賞味したのだろうか。
はたまた、何か別の小動物が、通りがかりにパクッと丸呑みしたのだろうか?パリの我が家のバルコニーに、一体どんな食い意地の張った小動物がいるというのだろう。
とにもかくにも「完食」とはこの事で、初めから何も無かったように、きれいさっぱりなくなっている。
硬い芯も葉脈もなく、隅から隅まで柔らかくて、食欲をそそる卵焼きのような色をして、相当おいしいかったのに違いない。
だいたい、口がどこにあるのかさえ判断しかねるナメクジに、目があるのだろうか。せめて、ちゃんとあの美しい黄色を愛でながら堪能してくれただろうか?
そんな思いに紛れて、ふと、花喰い小人という言葉が浮かぶ。小さな帽子をかぶった姿が目に浮かぶ。ヌメヌメと光るナメクジよりよっぽど絵になるではないか。
葉っぱだけになったカボチャの隣で、柔らかい産毛をいっぱい付いたボリジの蕾が待機している。事件のことなど露知らず、何も懸念せず、無垢な姿で。もうすぐ青い小さな花を咲かせるだろう。サラダに食用できる花なのだ。誰のサラダになるかが問題だけれど。
こうしている今も、バルコニーの片隅の葉陰に息を潜めて、姿なき小さな食いしん坊は密かに蕾を見張っているのだろうか。次なるご馳走を狙っているのだろうか。日が落ちて、私達が寝静まるのを辛抱強く待ちながら。誰の目にも留まらぬよう、真っ暗になるのをじっと待ちながら。それは一体どんな姿をしているのだろう?
夕暮れ時にもなると、そんな何者かの微かな気配を感じるのは気のせいだろうか。