Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Botaniste

朝、たった1章の短い読書。

 

f:id:Mihoy:20210118224702j:image

 

本の著者は、パリの植物公園の附属研究所で草花の標本を作っている人。自然科学者と呼ぶのかしらん。

たった数ページの上に託された、少年時代の筆者の目に映った自然描写にすっかり没頭した。広大な麦畑と葡萄畑に挟まれた場所で、少年は夏のヴァカンスもどこにも行かず、日がな一日近所の沼で過ごしている。そこだけ手付かずの謎めいた場所なのだ。自然さえあれば、それだけで日々は探検だ。祖母の家でいとこ達と過ごした私の遠い夏休みと重なる。あれは貴重な時間だった。

改めて、息子をずっと都会で育てていることを残念に思う。虫はもちろんのこと、草や花や木に全く興味のない息子は、最近は公園にさえ行きたがらなくなった。子供にはそれぞれ持って生まれた性向というのがあって、どうやら彼のそれはパパ譲りのようだ。

 

いつか、パリから飛行機を乗り継いで、息子を私の祖母の田舎に連れて行った。子供の頃に摘んだハイビスカスや名も知らない南国の花々、見つけては嬉々として口に運んだ桑の実、捕まると尻尾だけ残して逃げるトカゲ、隣人の家に茂るバナナの木の見事に大きな葉っぱ、ガジュマルの大木が地面に実を落とす音、蛇に気をつけながら懐中電灯を手に広場に急いだ盆踊りの夕べ、仄かな蛍のひかり、まるでルソーの描いたジャングルのように木々や茂みの向こうに何かが潜んでいる夜の闇。全部見せてあげたいなと思った。けれども、もう祖母のいなくなった田舎には、私の見た風景も殆ど残っていなかった。

この世の中で、生き物以外の一体何に、私達にとっての学びがあるというのだろう。

 

ちょうど、田舎暮らしを謳歌している親しい友から便りがあった。息子と同い年の可愛い娘さんと、庭で野菜を育てたりしながら日本の山辺に暮らしている。偶然にもパリが雪に見舞われた同じ日に、彼女も雪を見ながらくれた近況報告だった。パリの雪はたった1日で消えてしまったけれど、彼女が住む場所は冬は極寒の寒冷地だ。そんな中にもこの頃は春の訪れを感じると言う。彼女の目には今何が映っているのだろう。木々の枝先に日に日に膨らむ冬芽かな?それとも、山辺の小さな春の便りは耳に届くのだろうか。あるいは、舌の上に届くのかな。

次に日本を訪れる時には、息子を連れて彼女の所に遊びに行きたいなと思っている。

果たして、今年の夏はみんなに会えるだろうか。