Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Pause café

午前中、久々に近くに住む友人エドウィッジ宅で短いポーズカフェ (pause café / コーヒーブレイク)。


f:id:Mihoy:20210210102948j:image

 

集まったのはエドウィッジと私とマリンの3人。話の内容は主に子供達のこと。

 

彼女達にはそれぞれ子供が3人いる。そのうち、エドウィッジの長男とマリンの上の子 2人はハイポテンシャル、つまり IQ が平均値よりずっと高いという共通点がある。一見自慢できることのように思えるけれど、不思議なことに実情は少し違っている。

 

エドウィッジの長男は私の息子と同い年で仲が良く、うちにソワレ・ピジャマ (お泊まり会) に来たこともあるのでよく知っている。ちっちゃい頃から面白いほど頭脳派で、感受性豊かな男の子だ。人の話をよく理解するし、物事への興味が強い。年齢に不釣り合いなくらい深く考え込む子で、可愛らしい。時々、自分の考えの中に沈み込んで周りの声が耳に入らなくなったりもする。水面に再び顔を出すように我に返る時には、素敵なアイディアが浮かんでいて、パーッと顔を輝かせていたりする。そんな表情を見ると、一体どんな事を思い付いたのだろうと聞かせてもらうのが楽しみだ。

 

一方、マリンの長男は確かもう17才くらいで、家族や弟達の前でプロフェッサー(教授)気取りで知識を披露するのが得意だそうだ。同級生には胡散臭がられたりもするらしいけれど、学のある子だ。

マリンもエドウィッジも母性の強い素敵なママンで、しっかりと子供達の後ろ盾になっている。そんなインテリジェントで恵まれた環境にある子供達が、学校の要求に合わせるのに実は非常に苦労していたりする。まったく、子供にどんな才能があるにしてもママンの悩みは尽きないものだ。

 

マリンの長男はありとあらゆる検査を受け、しばらく前から脳神経科の先生に勧められた薬を定期的に飲んでいる。それ以来ようやく手応えのある学校の成績が出せるようになった。例えば、判読不可能と言われて0点で突き返されていた作文や解答用紙なども、薬を飲むと字が落ち着いてやっと内容が評価されるようになったそうだ。際限なく浮かぶ考えをまとめるために落ち着くのにも、その薬が一役かっているらしい。

 

実を言うと、最近、この手の薬を処方されて飲んでいる子供達が周囲に少なからず存在する。私の義理の姉の子供、すなわち16歳になったばかりの姪も然りなのだ。

生まれ持った能力に偏りがあって、どんなに頑張ってみても学行が上手く軌道に乗らない。本人や両親の努力不足と見做されて始終非難を受ける。努力が評価されないとあれば子供は当然自信を失う。親は当然愛する我が子の将来を心配する。そこで最新の科学を頼みの綱に、細密検査で偏りの所在を明らかにし、解決法 (ケミカル) を投入するといった具合なのだ。姪の場合もマリンの長男の場合も、最終的には本人達の希望で薬の摂取に至っている。心配した副作用も感じられず、結果は上々なようだ。

 

偏見だらけの個人的な結論から言うと、私は息子が例え自分から望んだとしても、周囲が求めるレベルに達するために薬の助けを借りるつもりはない。マリンも義理の姉も初めはやはり懐疑的だったと言う。紆余曲折や実験的な期間を経て、散々話し合った末に現在の結論に至ったのだそうだ。因みに、科学信仰の強い私の夫は彼女達の結論に初めから賛同している。

 

マリンも義理の姉も私が慕う愛すべく人達だ。彼女達の取った結論を批判する気はさらさら無い。ただひと言、心から「なんて世の中!」と叫びたくなってしまう。

 

人は一人一人違って当然、偏りがあってこそ生き物と呼べるはずなのに、それはただの空論なのか?事実を受け入れないシステムが当たり前のようにまかり通っているせいで、要らない事で真面目な人達が苦しまされているように思えてならない。

ある程度どのような環境にも順応しようとしてしまう人間独特の柔軟性が、裏目に出ているような気がする。

 

いつか私が息子のことで長々と話を聞いてもらった時、エドウィッジが彼女の好きなアインシュタインの言葉を教えてくれた。

 

" Everybody is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid "

人はみな天才。けれども魚を木登りで評価しようとすれば、その魚は自分をデクの棒だと一生思い込むだろう。

 

事あるごとに思い返す言葉だ。

 

 

ところで、マリンは先週彼女の父上を亡くしている。80代も半ばを超え、数年前よりもともと病気で体が衰弱していらしたそうだ。いよいよかと覚悟させられた事が今までにも何度となくあったので、ここまで人生を全うできただけで有難いと思っていると穏やかに話した。今回私たちが集まった理由の一つは、ささやかながらも彼女を支えてあげたいという想いだった。

 

父上の介護に当たっていた彼女の母上は、幸いにもご健在だそうだ。夫婦揃ってコロナに感染していたというのに、母上は殆ど無症状で回復なさったそうだ。高齢でも基礎体力のある人は大事に至らないという話は、実は他にも聞いている。フランスのどこだかの地方の、90歳を過ぎたとびきり元気な女性がやはり無事に回復なさっている。ラジオから、歯が抜けてフイゴのような声で「わたしゃもうすっかり元気ですよ!」と嬉しそうに叫んでいるのを聞いた。なんとも心強いニュースではないか。

 

マリンと一緒にエドウィッジ宅を後にして、ブーランジェリーの前で別れる前に彼女が言った。「とにかく、私たちはまだこうして生きているということね。」ビズーの代わりにポンポンと肩を叩き合い、また会おうねと言って別れた。雪がちらほら舞っていた。