Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Conversation au rayon de miel

買い物先で、棚に並んだ蜂蜜の瓶をあれこれ物色している長身の美しい人がいると思ったら、友人ソニアだった。

 

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ちょうど会いたいと思っていたところなので嬉しい。以前の私達ならぎゅっと抱き合って両頬にビズを交わすところだけれど、フランス流の挨拶は現在ご法度。すっかり省略するようになってから久しい。だいたい、いつか以前のような習慣を取り戻す日がやって来るのだろうか?と疑問にさえ思い始めている。

 

2度目のロックダウンは名ばかりで、実際には規制が緩く、日中の街の人手は普段と変わらない。買い物、通学、一時間以内の運動や散歩なども許可されている。要は、外出の理由を書いた紙にサインして持ち歩けばよい。この自家発行の「許可書」を携帯し忘れると罰金を科される訳だけれど、ポリスに呼び止められたり提示を求められたことは今のところ一度もない。友達に会ったりするのは憚れるため、顔を合わせるのは一緒に暮らしている家族か、ときどき近所の知人とすれ違って挨拶する程度に留まっている。

 

マスク着用の義務にはうんざり顔のソニアだけれど、相変わらず元気そうだ。いつどこで会っても、スーパーに買い物に行く時でさえもお洒落でカッコいい素敵な女性だ。

仕事のこと、子供達の学校の話など、手短に近況を伝え合う。と、彼女が唐突に「先日の件、とても気の毒に思ってるわ」と言葉を挟んだ。「先日の件」とは、パリ郊外の中学校の先生が命を落とした事件のことだと察しが付いた。言論の自由について語る道徳の授業で、イスラム教祖を揶揄する記事を生徒に紹介したためにテロリストに狙われたスキャンダルだ。その悲劇以来、フランスは最高警戒態勢に入る今日に至っている。

 

ソニアはいわゆるマグレブ系のフランス人。ヨーロッパ人と中東人を足したような容姿をしている。瞳は黒く、肌の色は健康的に日焼けした西洋人といった具合。羨ましいほど手足が長くてスレンダー。本人は生まれも育ちもフランスで、身も心もパリジェンヌであるけれど、ご両親は生粋のアルジェリア人だ。この国には、こういったタイプの移民によるフランス人が実に大勢いる。ソニアの場合、イスラムは宗教として信仰こそしてはいないものの、両親をはじめ祖先が密接に関わってきたカルチャーとして、その体の中に (頭の中ではなく) 浸透している印象がある。だから、同民族によるテロが起こる度にきっと多かれ少なかれ複雑な立場だろうと想像する。

事件を起こすのは極少数の過激派集団であって、一般の信者や移民の子孫達は勿論なんの暴力性も持たない。それでも、現在のような緊迫した状況下ではその文化に属するというだけで敵対視されることもあるだろうし、警戒する人達の気持ちも分からないでない。ソニアのような善良な「フランス国籍の人間」であっても、その出身のためにきっとどことなく肩身が狭い思いをしているこの頃だろう。例え国籍は持っていても、根っからのフランス人になるのは決して容易なことではないのだ。

 

ソニアのセリフは、自分はフランス側の肩を持っている という立場を私に明白に見せるための発言だ。(神の冒涜を辞めない忌まわしい国として、現在、フランス製品の非買運動を行っている国もある状況下だ。) 彼女と親しい私は彼女の見解を始めから想像していたけれど、確かにこちらから「今回の件、どう思う?」とは切り出し辛い話題だ。それで先方から気を利かせて話を振った次第だろう。ほんの立ち話の機会でも避けては通れない程、目下注目されている出来事だ。

私の息子も彼女の2人の子供達も、それぞれ別のカトリック系の学校に通っている。カトリックというだけで標的になり得るので心配だと私が話すと、同感だと頷いてしばらく考え深げに黙ってから、ソニアは振った時と同じように唐突に話題を変えた。今度はもっと明るい、全然別の話題に。

 

いつか義理の母が言っていた。外国の人間がフランスを悪く批評しているのを聞くと、例えその内容が事実だと同感しても、やはり嬉しくないと。確かに、それは自分の両親や家族への批判を聞くようなものだ。ソニアの場合も、たとえ自分に直接関係がなくとも、自分のルーツである文化がこのような形で世間の叩き台に出されると耳が痛いであろうと想像する。

宗教がらみの話題は往々にして複雑だ。いっそ、信じるものなんて無い方が楽ちんだなと思ってしまう。

 

タイムリーなことに、息子の学校の歴史の授業は、ちょうどイスラム誕生からカトリックの十字軍による遠征のあたりに差し掛かっている。お互いに「聖戦」と名付けた奪略を繰り返していた時代の話だ。千年近く経った現在も今だに解決されていないのだなと思うと、人の不変さに呆れる。確かに後者の宗教は今では武器を手放したけれど、過去には戦いの主要な原因であった訳だ。こちらにとっての正義は相手にとっての悪、逆に、相手にとっての正義はこちらにとっての悪。埒が明かない。一神教は特に不便だ。

 

やはりどう考えても、信じるものなんて無い方が無難だ。あるいは、人の数だけ神様がいる というのはどうだろう?私とあなたが別々の人間であるように、あなたの信じる神様が私の神様と違うのは当然 という具合に。お一人様につき、漏れなくひとつ。神様の安売りだと思われるだろうか。例えそれで折り合いが付いたとしても、人間という生き物はきっと別の争点を見付けてしまうんだろうけれど。

 

それにしても、宗教の歴史を見る度にこう思う。たとえ当初は略奪者に強制された文化や宗教であっても、ひとたび時が経ちジェネレーションを超えるとすっかりその土地に根付いてしまうのだから、人間の適応能力は素晴らしいのだか何だか。ある程度何にでも適応できてしまうのは、実は私達の短所なのかも知れない。

 

ソニアと別れた帰り道、こんな事を考え出したら止まらなくなった。