Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

La vie en rose

人生は薔薇色かどうかについて


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まったく、人生は戦いだと思う。そう思わされる時がある。

百戦錬磨の騎士はカッコいい。でも、いつも戦っていたら疲れてしまう。だから、肩肘張った戦闘態勢はほどほどにしておかなくちゃ と、自分に言い聞かせるようにしている。これは戦いではない。戦いにはしたくない。そう唱える。

 

まるでこちらの戦闘力を試されているような事がある度に、肩を怒らせて構える自分を敢えてなだめる。これは大いなる人生が手向けた挑発だから、ちっぽけな私が真に受けたところで、正当戦で太刀打ち出来るはずがない。真っ向から受けてワンワン吠えてはいけない。ネコのように極力省エネ態勢で行こう、と。

そんな風に思うようになったのも、実は今まで散々体当たりして戦ってきたからであって、そうでなければそんな境地には達していなかっただろうと思う。今だって実はまだ辿り着いてはいないけれど、一山越えて少し景色が変わったような地点にいる私だ。

 

人生が戦いでないのなら、一体何だろう?

旅かな?物語かな?なぞなぞかな?

私の場合、「人生はおままごとだ」くらいのノリがちょうど良さそうだ。本気になり過ぎては息切れしてしまう。

 

七転び八起き という言葉は、小学生の頃の親友、まい子ちゃんの好きな言葉だった。なにがあってもメゲずに頑張ろう!という、明るくて運動の得意な彼女らしい精神だと当時思ったものだけれど、最近になって、この言葉の解釈が私の中で微妙に変化した。

何度倒されて起き上がってみても、何度躓いて立ち上がってみても、また「次」が来るのが人生だから、そういうものだと知って諦めなさい。そんな風に言っているような気がする。

 

人生はきっとファイテングゲームなのだ。倒れても倒れても、ゲームオーバーになるまで「遊び」続けるより他はない。そんな人生に役に立つ能力の一つが「忘れる能力」で、私にはすぐ近くにそのお手本となる達人がいる。息子だ。あどけない彼は、大泣きしても、次の瞬間には忘れてケロリとしているからホッとする。子供の天賦の才能だと思う。

 

過ぎたる日曜日はフランスの母の日だった。朝、家族からバラのブーケを貰った。

同じ日の午後、セーヌ岸を歩いていたら、「バラ色の人生」のソウルフルな歌声が聞こえてきた。

それを口ずさみながら歩いていたら、一輪のモダンローズを拾った。道の花壇のバラが綺麗だなと思って近付いたら、よく見ると一輪だけバラではない葉っぱの上に、お皿にご馳走を乗せるように置いてあったのだ。おや?と思って手にしてみると、誰かが手折った花だった。子供が折って、ママンが取っちゃダメと言ったので慌てて置いたのかも知れない。

ともかく、それを頂戴して、通りがかりのフローリストで小さな花瓶を買って水を入れてもらったら、そこでオールドローズをまた一輪貰った。

先日の皆既月食の薔薇色の空を見上げて以来、偶然にも薔薇が続いている。

 

今日は朝から軽くカウンターパンチを喰らうような出来事があって、浮かない気分で外を歩いていたのに、空は快晴。バラがあちこちに咲き乱れて目を奪う。こうあっては、沈んでいた気分も長続きしない。

薔薇 (花) は自然の生み出す美の結晶。その美しさで人を癒してくれる。そして、歌や音楽、リテラチュールやポエジー、おいしい料理やアートは、人の咲かせる薔薇なのだと思う。

とすると、とりたててハッピーではない時にだって、人生を薔薇色に彩ることはきっとできるはず。グレーな時こそ、心に薔薇を捧げればいいのだ。人生なんて、自分で薔薇色にしてしまえばよいのだ。そんな風に思っている。