糸杉の実のシロップ
ゴッホがよく描いた糸杉は、南仏でよく見かける木のひとつ。千年を悠に超え、二千年生きる木もあるのだとか。人間の一生なんて比にならない。
南仏の庭には糸杉の垣根がある。真下から見上げると首が痛くなるほど背が高い。二階建ての家の屋根よりもはるかに高い。乾燥した地中海性気候の植物は、オリーブもイチジクも葡萄も、強烈な太陽に押し潰されたかのような低木が多いけれど、糸杉だけは例外なのだ。
糸杉は松ぼっくりに似た実を付ける。緑のうちに摘んで、砂糖漬けにしてシロップにできるといつかどこかで聞いた覚えがある。台所の棚の奥にハチミツがあったので、漬けてみることにした。こういう思い付きは心が躍る。
摘んだ実の半分は丸ごと、もう半分は砕いて、空のジャムの瓶に投入し、上からハチミツをトロリトロリと被せる。青い爽やかな香りがする。瓶の淵ギリギリまでたっぷりと入ったら、きっちりと蓋をする。パリに持ち帰る手土産の出来上がり。
一晩漬けた翌朝、密閉したはずのジャムの瓶からハチミツが漏れていた。中を覗くと、表面にあぶくがたくさん。さては、ガスが出たのかな?まるで、糸杉の実の呟きが溢れ出したような具合だ。
糸杉の実のお茶は、風邪に効くのだそうだ。身の回りにある、特にどうってことのない植物達も、実はみんななにがしかの薬効なり毒なりを持っているに違いない。自然界の生み出すものには、きっとすべて意味があるのだろうと思う。
夫や義理の姉が育ったこの南仏の家は、パリから遠く、義理の母が隣町に引っ越した今となっては、普段は誰も住んでいない無人の家。「売ることになるかも知れない」と、さっき夕食の席で夫が話した。初耳だった。彼らにとっては家族の思い出の家だけれど、管理に手が掛かり、この先誰もここに移り住む予定もない。義理の母はまだ躊躇っているようだけれど、思いがけなくその子供達は心が決まっているようだ。
私は、ここで長年暮らした夫達ほどにはこの家に思い入れがないけれど、いつか、庭のイチジクや、糸杉の香りや、隣のオリーブの林や、小道の桑の木立のことを懐かしく思い出すのかも知れない。
明日は荷物をまとめて南仏を発つ。