見上げると、うっとりするような優美な天井。
視線を落とすと、ここは子供達で賑わう科学博物館。
Le palais de la découverte.
何に触発されたのか、唐突に、学校で稲妻についての発表をしたい とのたまう息子と、その友達5人を連れて、大所帯で館内を巡ることとなった。
人体の不思議、宇宙のミステリー、生き物の謎、といった具合に様々なコーナーがある中で、電気に関するデモンストレーションを見学する。(人間にとって、要は自然の仕組みのすべては依然として「謎」なのね と思う。)
エレクトロン(電子)は原子核の周りを回っている。星の周りを回る惑星のように。
宇宙の構図にそっくりだ と思う。
この世に存在する全ての物が、星とその周りを巡る惑星という組み合わせでできている。宇宙とて同じこと。
私たちの宇宙は、想像さえ及ばないとてつもなく巨大なものの体の一部として存在しているのかも知れない。それと同時に、私たちの体は、とてつもなく小さな星が集まった宇宙そのものなのだ。大きな宇宙は小さな宇宙を内包していて、小さな宇宙はもっと小さな宇宙が集まって出来ている。とすると、その逆もきっと然りだ。大きな宇宙は、もっと大きな宇宙のほんの一部に過ぎず、もっと大きい宇宙は、さらにもっともっと大きい宇宙に含まれていて...、それが延々と果てしなく続いているのだとしたら...? 終わりがないのだとしたら?
宇宙の写真や映像を目にすると、つくづく美しいと心惹かれると共に、何故かそこはかとない畏怖の念が湧く。本来見るはずではなかったものを見てしまったような感覚を覚える。
星の軌道をそれてしまった惑星は、ちょうどこんな気分になるのではないかしら。無限大の美しさに惹かれると同時に、軌道を逸した不安。
ありとあらゆるものは全て小さな粒(原子)の集まりでできていて、それらの違いはその粒の組み合わせの違いに過ぎない という、現代で言うところの科学的事実(原子論)は、なんと古代ギリシャの哲学者が既に仮定して提唱いたと聞く。目には見えず、当時、どう転んでも検証不可能であったはずのそういったこの世の仕組みを、彼らは一体どうやって理解し得たのだろう?
「科学」という学問がまだ存在していなかった古代、そういった「仮定」は自然哲学なるものとして枠組みされていたようだ。いわゆる、観察力と想像力の賜物。やはり、人間の一番の強みは、いつの世も、まさにこの想像力なのではないかしら。終わりのないものは宇宙の他に少なくとももう1つある。それは私たちの想像力だ。
自分が確信するもの に、必ずしも検証の必要性を感じない私は、きっと科学者には向かないタイプだけれど、自然哲学というカテゴリーであれば相性が良さそうだ。
敵対する2人の視線の接点に火花が散るとか、視線を感じるとか、電撃に打たれたようにショックを受けるとか、キューピッドの矢に打たれるとか、以心伝心や虫の知らせ、引き寄せの法則とか、あるいはもっと単純に人や場所が醸し出す雰囲気とか、目には見えないけれど、その存在をたとえ科学という分野で説明しきれなくても、確かに存在するものって、たくさんあるに違いない。
目に映らないものは、心の目で見ればいい。
世の中は、見えるものより見えないもののほうがずっと多いに違いない。
科学は素晴らしい。
想像力はもっと素晴らしい。