Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Précurseur de mille fleurs

京都から知人が来仏し、梅のほころぶパリにて茶懐石の会に足を運んだ。

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心を込めて作られた繊細で美しいご馳走を、時間をかけて、愛しみながら、一口ずつ静かに戴く。

桜色の着物姿の女性が配膳する四角い漆塗りの御膳と、そこに載った雅やかな器。どれを取ってもそれは丁寧な仕事。自然に背筋が伸びるというものだ。普段はお喋り好きなフランスの客人達も、流石にこういう席ではかしこまって、口を閉ざしてキリリとしている。清々しい緊張感が気持ち良い。こうした空間では、体中の感覚が研ぎ澄まされるというもの。

 

10代の頃は、決まり事は息苦しいものだと思っていた。

けれども、これは遊びなのだ。子供の「ごっこ」だってルールがなくては遊びとして成立しないように、大人のお遊びにも、決まり事があってこそ味わえる面白さがあるのだ。全くの自由なんて、芸術性が低くてつまらない。

同じ所作を繰り返し行うのも、石の上にも三年。板につくと、頭で考えずとも自然に美しい動きが取れるというもの。それは母が以前語っていた事だけれど。時の移り変わりの中で、今日も変わらず同じ所作を行うことで気持ちが落ち着く、という効果もありそうだ。

フランス風の、議論で湧く賑やかなテーブルも魅力的だけれど、静かな和の食卓も奥ゆかしい別の魅力がある。どちらも知っている私は幸せ者だ。

 

和菓子や干菓子は、フランス語で gâteau と訳さず douceur と紹介していたのが新鮮だった。見た目も味も豪華なデザートを見慣れているフランスの客人達に、この簡素な「和菓子」というものがどのように目に映っただろう。派手な洋菓子に比べて質素な和菓子は、味わう人に経験と想像力が求められる大人向けのお菓子だと思う。そこのところは、谷崎潤一郎の陰影礼賛が流麗に形容しているけれど。

 

茶の湯を開いた千利休の事をもっと知りたいと思った。日本の実家の母の書棚に残されたお茶の本の数々。そのうち読んでみよう。

 

以下、今日の茶懐石で初めて知った事。

梅の花を「百花の先駆け」と呼ぶこと。なんて趣のある呼び名だろう。

徳利は、瓢箪型のその入れ物からお酒を注ぐときの擬音「とっくり とっくり」から来ているのだとか。フランス人の耳には、日本語のオノマトペは相当リアリティーが欠けて聞こえるに違いないけれど。

茶懐石の席でお酒が振る舞われることも初めて知った。会を催す主人は、お酒に強くなくては勤まらないのだ と今日の主人が笑っていた。

 

家に帰って口が勝手に思い出すのは、意外にも汁物の味であったりする。年明けに日本の友人が振る舞ってくれた赤汁の味を翌日思い出したように、日本人の舌の上に控え目ながらも長く印象を残す味は、甘味でも塩見でも辛味でもなく、ダシの「旨味」le fameux "Umami" なのかも知れない。愛らしい鞠麩とほうれん草の入った白いお味噌汁の風味が、今も舌に、すでに「懐かしく」残っている。

 

エッフェル塔の袂で、京都から届いた春の便りを受け取った午後だった。

 

東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花

主人なしとて 春な忘れそ