Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

À la fin des vacances

2020年2月20日。2週間の冬のヴァカンスがもうすぐ終わろうとしている。

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書くまでのことではないと重々承知の上で、今日は少しくだらない愚痴をこぼさせてもらおう。

 

毎日のように、息子やその友達を連れて彼らが喜ぶ場所に連れて行き、本人はやる気ゼロの宿題を辛抱強く手伝い、いつものように3度のご飯を作り、そうやって一緒に過ごす時間は貴重であるし、好きなのだけれど(嫌々やらせる宿題の時間を除いて)、自分が行きたい場所には全く行けず (子供で男の子の彼と、大人で女性である私とは好みも必要性もハッキリ違うので)、読みたい本は読むヒマが見つからず (息子を寝かせて家事を全て済ませる頃は、せいぜい急いでシャワーを浴びるくらいの時間しか残らないので)、14日間、純粋に彼のためだけに全ての時間と体力を費やしていると、最後はさすがに息切れしてくる。どんなにシャカリキになっても1日は24時間だから、彼の1日に付き合うと、当然自分の1日はなくなる。それが数日ならともかく14日も続くと、小さな悲鳴のひとつもあげたくなってしまう。

フランスでの子育ては、大人の付き添いなしで子供だけを遊ばせたりはしないので、小学一年生になった途端に自分たちで登校し、下校すればランドセルを放り出して子供だけで遊びに出ていたような私の日本での子供時代とは天と地ほど違う。それだから更にフラストレーションが溜まる訳である。

学校や習い事の送り迎えはもちろん、遊びに行くのも、その為に友達と約束を取り付けるのも、全てママンの(あるいはシッターさんの)仕事。ママンはまるで小さな社長秘書だ。それがヴァカンスともなると、秘書業は文字通り24時間体制となる。フランスの子供の自立がこんなに遅いとは、出産するまで知らなかった。とんだ計算違いだ。

で、ヴァカンスも終わりに近づいた今日。水曜に子供も交えて会ったばかりのご近所さん、ヴェロニックがsmsを送ってきたので、返事がてら、お子ちゃま社長秘書のフラストレーションを冗談半分に漏らしてみた。

すると、「私は子供達とゆっくり過ごすヴァカンスの時間がつくづく好き。終わってしまうのが惜しいくらい」と返ってきた。いかにも彼女らしいなと思った。

私だって息子と過ごす時間は好き。何があってもそれだけはちゃんと確保したいと思う。この目で、その成長を、その反応を見たいと思うし、そのために家にいる事を「選んだ」のは確かだ。そして、こうして子供と一緒に過ごすという選択肢のある環境に居ることは幸せなことであるし、感謝しなければならない。

 

ヴェロニックと会った水曜日は、子供達を連れてみんなで1日パリを散策した。火災にあったノートルダム寺院を遠目に視察し、ヴォージュ広場まで歩き、その近辺にある彼女オススメの紅茶専門店(子供達も多種多様なお茶の香りが嗅げるので喜んだ)や、マルセイユ石鹸のブティックをのんびり覗き、その度に店員の女性らとお喋りをして盛り上がり、ついでに通ったインテリアの店もゆっくりひやかし、その後マレのユダヤ人街を通って、おやつは屋台のクレープを頬張った。最後にセーヌ川岸を歩き、帰途につく頃はすっかり暗くなっていた。その間彼女はゆったりとしていて、いかにも楽しそうだった。この1日の過ごし方にすっかり満足している様子だった。

いつか誰かが言っていた。科学的な調査によると、一般的に、女性の脳の満足度指数が一番上がるのは、井戸端会議でみんなで頷き合って盛り上がっている時なのだと。私の脳は女性的ではないのだな、と思ったのを覚えている。

そもそも、フラストレーションが溜まるのは、自分がすべき事、したい事、満足感を得られる事をしていないからだ。女性的なヴェロニックにとっては、子供と一緒に散歩して、道々のショッピングでお喋りしながら歩くことで、しっかり満足度指数が上がっている様子だ。問題は、同じ事をしても私の満足度は彼女ほど高くない というところにある。確かにそうやって過ごすのは楽しかったけれど、私の場合、満足という感覚はそれほど得られなかった。そうやって日がな一日過ごすのは、少し時間がもったいない気さえしないでもなかった。では、何をもって私の満足度指数は上がるのか?何をすれば、時間を有効に使ったと心から思えるのか?

それは、私の場合、イマジネーションすること、それを形にすること、すなわち、「作ること」なのだ。

 

満足よりも更に、いやはるかに上をいくものに、快感がある。私は満足では満足しないグルモン(食いしん坊、欲張り)なのだ。物作りと、それが出来上がった時のえもいわれぬ爽快感、快感。それを私は知っているから、追い求めたいと思うのだ。そのために時間と労力を費やしたいと願うのだ。そのためには、井戸端会議ではなく、どうしたって自分と向き合うための時間と空間が必要なのだ。