Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

La reprise de l’école

イースターのヴァカンスも今日でおしまい。

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相変わらずコンフィヌモン( confinement / ロックダウン) が続く中、明日から「学校に行かない学校」が再開する。明日からママンは毎朝メールボックスを開き、その日息子にさせるべきことをリストアップするのだ。

 

日々のリズムは大切。ルーチンも必要。

けれども、朝起きて、「さて今日は何をしよう?」とその日一日の時間の過ごし方を自分で決められたら素敵だ。どんな1日にしよう?と、まだ眠たい朝のベッドの中で、あるいはのんびり朝食を取りながら、思い巡らせるのは素敵だ。その日1日を料理するシェフは自分なのだ。

 

ところが、

学校がある時の息子の生活はそうはいかない。

何をしたいかなんてのんびり考える以前に、こなすべき事が次から次へとやって来る。好むと好まざるとに関わらず。毎日、その日1日の問いは「何をしよう?」ではなくて「どうやって終わらそう?」なのだ。

こどもの時間はどこへ行った?

一日は誰のもの?

 

そう考えていたら、ふと、子供のころ読んだ「長くつ下のピッピ」を思い出した。自由人のピッピは、自分の一日を自分で自分流に料理する天才だ。

 

息子の学校のカリキュラムや膨大な宿題を見ていると、「アレをやりなさいコレをやりなさい と、そんなに指示してくださらなくってもケッコウです。私はママンとして、息子と一緒に、何をどのように学ぼうかくらい自分達で考えて決められます。ものを学ぶのは、机に向かう以外にも色々な方法があります。学校に行くよりよっぽど才能豊かな子に育てて見せます。」

と、言いたくなる。

 

もちろん、私のような親は極少数派であることは自覚している。いつだったか、une réunion des parents (学校の保護者会) があった時、「毎日一時間程度の宿題を出します」とおっしゃる先生に対して、もっと増やしてくれと発言するパパが居て仰天した覚えがある。もっと勉強させたいのなら、自分でさせればいいのに と思ったけれど、何をさせるか自分で選ぶのは面倒なのだろうなとすぐ思い直した。生徒のキャパシティーにもよりけりだけれど、与えられた物をこなす方が楽ちんという訳だ。そういうご家庭もあるのだろう。

何はともあれ、今の世の中の紋切り型の義務教育には疑問あり。

 

と言うのも、これが19世紀のフランスだったら話は別だ。ヴィクトール・ユゴーが義務教育を支持したのは、当時の世の中を見ると正解だったと思う。まだ物心付かない子供が働きに出て、炭鉱や工場で肉体労働を課せられることさえ稀ではなかった時代。貧富の差が激しく、識字率も低く、学ぼうにも学べない人達が多く存在した時代。

それから時は過ぎた。義務教育も、もっと今の時代にフィットした形になればいいのに。

 

写真の絵は、昨日からソファーで夜眺めている花の画集の中の一枚。

緑に囲まれた田舎の祖母の家を思い出す。幼い頃の私の最高の遊び場であり、学校であったと思う。