結晶のはなし
きっと誰にでも、あるふとした言葉がしばらく心に残る経験があると思う。
友人アデルに会ったのは9月の終わりだったけれど、彼女が口にしたある言葉が、ずっと心に引っ掛かって流れていかない。
「アイディアが浮かぶのと、それを形にするのとでは話がぜんぜん違うの。その2つはまったく別の作業ね。」
インスピレーションに富んだ宝石の展覧会を一緒に周っている時だった。絵描きのアデルが自分に向かってさらりと言った言葉だ。それなのに私は、すっかり痛いところを突かれた気分だった。
実現しようとした途端に逃げてしまうアイディアもあれば、うまく形にならないアイディアもある。思っていたのと全然違う結果になる事もある。アイディアを形にするのは、忍耐も努力も体力も要る崇高な作業だ。時間もかかる。産みの努力が必要だ。そう簡単にできることではない。世にアイディアのある人は多けれど、それを形にできる人となるとぐっと数が少ないのはそのせいだ。アイディアというのは、そのままの形では、アウトプットは愚かインプットでさえない。その閃きは美しいけれど、一瞬の話だ。
展覧会のショーケースに並ぶ貴石の数々は、ちょうど幾つも浮かぶアイディアのようにキラキラ輝いていたけれど、あれはただのアイディアなんぞではない。目に見えて触れることもできる形ある結晶なのだ。地球が時間をかけて結晶化させた宝なのだ。
私は、子供を持ってからの自分の生産性の無さにフラストレーションが溜まっていて、我慢がならない。相変わらずアイディアばっかりいっぱい浮かんで、そのせいで眠れないことだってあるし、ただそれだけで、生きてるってスバラシイ!と興奮することもある。アイディアは持っているだけでも楽しい。アイディアは私の生きる糧の一つだ。
けれども、アイディアは辛抱強く温めて孵化させる行為をしなければ、私が居なくなった時すべて一緒に消えてしまうのだろう。「思うところがあっても、言葉にしなければ無いのと同じ」という西洋的な考え方は確かに一理ある。アイディアだって同じことだ。実現させなければ無いのと同じ。
だから、ついこの間仲良しのキャロリーヌに会った時、ある提案をしてみた。一緒に期限を決めて、その日までにそれぞれのプロジェクトを形あるものにしてみない?と。足を運んだ宝石展にかこつけて、この作業をクリスタリゼーションと呼ぼう。
この計画にキャロリーヌを巻き込もうと思った理由は、彼女が、大小様々に輝く原石のようなアイディアを密かに持っているのを知っているから。それがいつか日の目を見ればいいなと思っているから。彼女の3人の子供は成長して、ようやく少し手が離れたところだ。ご近所さん同士だから、定期的に会って報告し合うにも都合がいい。これからちょうど寒い季節がやって来る。地中でひっそりと英気を養う植物のように、時間のかかる企てごとをするのにこれ以上良い時期はない。
友達がいることの良さは、カフェでお喋りできるだけに留まらない。1人ではなかなかエンジンのかからないことを一緒に踏み出したり、楽しいことに引き込んだり、切磋琢磨し合ったり。一緒に人生にアクセルをかけるのだ。
息子が小さい頃に聞いていた童謡に、こんなすてきな歌詞があった。
仲良しの子と一緒にいれば、「楽しいことは2人分、悲しいことは半分」
言い得て妙なり。
幸せ者の私がいくつか持っている大事な宝石は、そんな友達たちだ。そう、これは、日記の形を借りた他ならぬあなたへのラブソングです。