Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Une bombe

歩いていたらリンゴが置いてあった。

 

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道の脇の深緑色のベンチの上に、ちょこんと。

今日はメトロに乗りたくないと息子が言うので、学校から家までの3キロ半をてくてく歩いている途中だった。

 

運動嫌いな息子がどうして歩きたがったのかと言うと、「メトロは変な人がいっぱいいるから」ですって。どうしてそんな事を言うのかというと、年末に私がメトロの改札で息子の目の前で財布を盗まれたからだ。

盗んだのはいわゆる浮浪者風のスリで、私の両手が買い物袋と息子の運動着バッグで塞がれていたのをいいことに、切符を入れて入る改札の回転棒を潜ろうとした瞬間に後ろからくっ付いてきて、肩に掛けていたハンドバッグから器用に財布だけ抜き取った。よくある手口だ。盗まれた瞬間は気が付かなかったけれど、悪い予感がして咄嗟にカバンに目をやると案の定だ。動揺して真っ青になった。相手は見た目も口から出る言葉も酷く薄汚れていて、なんだ気付きやがった とかなんとか口走りながら遠ざかって行こうとする。

瞬時に、相手がナイフをかざす不良少年の類いのスリではない事、昼間のメトロの改札で多少は人気がある事を確認し、何より財布の中のクレジットカードと滞在許可証を持っていかれたら相当困ることを思って、次の瞬間に大声で叫んだ。

オヴォラー ! (Au voleur  泥棒!) 

 

昔、この言葉を習った時、「ふうん、前置詞と定冠詞の合体した Au を付けて、そういう言い方をするのね」と悠長に思ったものだけれど、実際にそれを使う日が来ようとは。

 

とにもかくにも取り敢えず相手を追いかけた。男は地下の薄暗く長い廊下を地上口目指して走る。ところが足はあまり速くない。半分酔っ払っているのかもしれない。両手に荷物をぶら下げた私でも全速力で走れば追いついてしまう。追いついたところで飛びかかれる訳でなし。タイミング良く向こう側の地上口から降りてきた人達の中に男性の姿もちらほらあるのを見計らって、もう一度めいいっぱい叫んだ。

「オヴォラー!私の財布返して!!」前置詞も定冠詞もちゃんと付けて。

すると覚悟した男が止まった。向こうから来る人達と私との挟み討ちにあった訳だ。「こいつ、ただのシノワーズ (チャイニーズ) かと思えばなかなかやるな」といったニヒルな苦笑さえ浮かべていた気がする。止まった相手は懐に手を入れ、逆にこちらに数歩踵を返した。今度は私が後退りする。懐から何が出てくるか知れたものではない。近付かない方がいい。一瞬たじろぐ。

懐から出てきたのは盗まれた財布で、相変わらず口汚ない言葉を吐きながら、太々しく中身だけ抜き取って残りは投げてよこしてきた。走り寄って拾い、すぐに中身を確かめる。カードも滞在許可証もちゃんとある。抜き取られたのは現金だけだ。ホッと胸を撫で下ろした。

心配した周りの人が寄ってきて、大丈夫?財布は取り戻せた?カードは無事だった?と声をかけてくれた。こういう時に誰かと口がきけるとそれだけで安心する。

 

改札口に戻ると、真っ青な息子が泣きべそ顔で成す術もなく回転棒の向こう側に立っていた。大丈夫よ、お財布ちゃんと取り返したんだから。あなたのママは強いでしょ!と慰めながら、我ながらフランス生活にすっかり慣れたものだなと苦笑した。

改札の窓口のマダムに一応事の顛末を報告するも、ここはパリ。少しも動じず、ああそうですか今度から気をつけてください とだけおっしゃる。メトロのスリなんて何の事件味もない日常茶飯事なのだ。

 

後になって少し鼓動が収まってから、抜き取られたお金も人前で「私の生活費返して!」とわめいていたらひょっとして返ってきたのかな?とか、はたまた「養育費返して!」と言いたい場合はどう表現すればいいだろう?とか、返してくれと叫んだ時、返してください! Rendez-moi と丁寧語で言ったか、返して!Rends-moi と普通語で叫んだか、一体私はどちらを使ったんだっけ?とか、そんな事を思ったりした。

相手にお金がない事は一目瞭然だけれど、他に手段がなく仕方なしに盗みに走ったという様子ではなく、いかにも当たり前の事をしているような太々しい態度であったのが腹立たしかった。泥棒は現金だけ持って難なく逃げた訳だけれど、もしこれが流行りの(?)イスラム教国であったら、盗みを犯すと一体どんな罰を受けるのだろう?死刑だろうか?それはやり過ぎだなと思った。それにしてもフランスはその対極だ。夫には現金を持って歩くなと言われた。

 

いずれにしても、いざというときに必要な言葉は咄嗟に出るように予め備えておいたほうがいい。オヴォラーとか、オスクー (Au secours 助けて)とか、ジュテーム・モワノンプリュとか。

 

話を元に戻そう。

ベンチの上の林檎の事だけれど、「どうぞお召し上がりください」とでも言っているような様子だった。梶井基次郎の檸檬を思い出す。フランス語の翻訳本も出ているようだ。

そう、あの林檎はリンゴ爆弾に違いない。触れた途端に炸裂して、子どものオヤツのコンポートに変身するのだ。

それとも、あれは魔法使いの毒入り林檎で、齧った途端にあのベンチの上で寝惚けてしまうのかもしれない。都会の森の王子様役は一体誰が引き受けるのかしらん。メトロのスリごときでは出番がないポリスかな?