Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Disponibilité

この頃について

 

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一番の優しさというのは、結局、フランス語で言う être disponible 、つまり、英語で言うところの be available でいてあげることなんだろうな と思うこの頃。それは簡単なようでいて、そう容易ではない事で、犠牲を必要としたりもする。

 

どんなに優しさや愛情を持っていても、側にいてあげなければ出来ない事が多いし、だからと言って、近くに居ても忙しくて心ここに在らずでは、結局そこに居ないのと同じだ。

なるべく相手の声の届くところ、手の届くところに居て、なおかつ、ちゃんとその目を見て、耳を傾ける時間と余裕がある事。それが、相手に対しての一番の優しさに違いない。

 

かわいいおチビちゃんだった息子が、だんだん大きくなっていくこの頃。靴のサイズを追い越され、心なしか声のトーンが裏返り始め、昨日測った身長も、あとたったの2センチでママンに届く。先日の夕食のテーブルでは、ふと、フォークを持つ息子の手が、いつの間にか私の手と変わらない大きさになっているのにも気がついた。しばらく会わなかったご近所さんにすれ違っては、「大きくなったね!」と驚かれる。

 

まだまだクラスで一番のおチビちゃんだけれど、今だに甘えっ子だけれど、それでも、遅ればせながらも男の子独特の変化の時を迎えている。待ちに待ったはずなのに、いざその時がやって来てみると、嬉しい反面、くすぐったいやら、ちょっぴり名残惜しいやら。

背を抜かれたらどうやって可愛がればいいのだろう?もう可愛がれなくなったら、次は何を可愛がればいいんだろう?と、可愛がり癖の付いてしまったママンは考えている。我ながらなんだか可笑しい。

 

息子が慕っている習い事の先生がいらして、まるで親戚のように、あるいは歳の離れた友人のように、耳を傾け、付き添ってくださる優しい方なのだけれど、フランス語でいうところの victime de la succès、つまり高評判が沢山の人を呼んで、この頃すっかりご多忙の様子。もちろん、私達はその先生の時間を切り売りして貰っているだけで、その時間内の優しさ (私が呼ぶところのdisponibilité) を得られればそれで充分なのだけれど、息子のママンである私は、求められているうちは、時間制限も条件もない availability を確保してあげよう と、ふとそんな事を思ったりした。

 

そんな訳で、この頃、ますます自分の日々の記録を書く時間がない。細切れの時間をせっせと盗んで続けてきた日記だけれど、「盗む」意欲が一時的に失せてしまっている。

子供が子供であるうちに使ってやれる時間は貴重なはずだから、「どうぞママンの時間を今のうちに存分に使ってね」と、いつになく献身的に思っている。今まで、息子がなかなか寝てくれない日などは「ママンの時間を盗まないでちょうだい!」とキーキー叫んでいた私なのに、我ながら思わぬ展開。今までと比べて、特にこれと言って大した事をしている訳ではないけれど、ただただ息子と過ごす日々だ。子供の成長に合わせて、ママンだって成長するのだ。

 

私以外にもたくさんのママン達が、この道を通ってきたのかも知れない。ママンとは、自分も含めて、実に特別な生き物である。