Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Pourquoi écrire

ひとりごと

 

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今日は「書く」ということについて考える機会を得た。

 

どうして書きたいと思うのか と言うと、言葉こそ一番自由な表現手段だと思うから。

ダンスも、音楽も、絵画や彫刻もステキな表現手段だけれど、言葉さえあれば何も特別なものを必要としない「書く」という行為が、一番「自由の域が広い」のは、なんて素敵なことだろうと思う。衣装や舞台装置も、楽器も、絵具もいらない。なんにも要らない。言葉という魔法さえあれば。

 

想像力にはリミットもタブーもないけれど、それを一番忠実に結晶化し得るのが言葉であると思う。紙とペンさえあらば事足りるのだから、素晴らしい。

多分私は、言葉に対して、一種の信仰心に似た感情を寄せているのだと思う。

 

私のライフワークのひとつでもある土いじり(陶芸)は、土という素材がどんな形にでもなるところにとても惹かれるけれど、土も釉薬も窯も要る。まとまった時間と、特別な場所も確保しなくてはならない。それで、心ならずも、今はしばらく小休止になっている。恩師の方々には、早く再開の良いご報告ができるといいのだけれど。

 

写真を撮ることも好きだけれど、やっぱりカメラが要る。デジタルが出回って、スマートフォンひとつあれば事足りるようになったけれど、以前写真に傾倒した時代には、思い通りの写真を撮りたいとなると、やれレンズだの三脚だの、手ぶらで身軽に歩く楽しみが削がれてしまうのに閉口した。

それに、私が最終的に確信しているのは、自分は「視覚」の人間ではないなということ。圧倒的に「聴覚」を優先するほうだ。

そして言葉は、たとえそれが書かれたものであっても、明らかに聴覚に属するのだと勝手に思っている。音楽とは別の音楽。

 

結局、目に見える物、形のあるものよりも、見えないもの、形のないもののほうが勝るということだろう。星の王子さまのお話の中でも、「大切なものは見えない」とあるように。

 

どういう星の巡りあわせか、耳を優先して生きてきたような私の、その実の息子は耳が半分聞こえない。音楽や、文学という名の「もう一つの音楽」への扉が半分閉じている。それに心を痛めた時期もあったけれど、今は、彼のような世界観もあるのだと思うようになった。近視の私は、裸眼では霧の街で暮らしているような風だけれど、息子の場合、海辺で耳に貝をあてているような具合なんだろうと思う。

 

私が読むことを好きになったのは、ひとえに両親のお陰。特に、毎晩、語り上手の母がリクエストに応えて喜んで読んでくれたお陰。一緒に笑ったり泣いたりした。

書くことが好きになったのは、小学校に入学当時の偉大なる恩師、大野先生との日記のやり取りが始まり。3年間、ほとんど一日も欠かさず続いた日記は、4年目に担任の先生が変わり、コメントのクオリティーの違いに幻滅して一度は危機に陥った。それを救ってくれたのは父だった。仕事盛りの多忙な父との交換日記が一時続き、私の書いた「ぴょんぴょんウサギ」の詩に、父が続きを作って応えてくれた日のことは忘れない。

その後、仲良しの友達との交換日記になり、やがてボーイフレンドとの文通になり、「書く」という行為の先には、いつも誰かが居たことになる。

 

フランスに来て、パタリと書くことをやめて何年か経ったある日、禁断症状が出た。パリ市の主催するアトリエ・デクリチュール(文章教室)なるものに、ろくなフランス語も書けずに飛び込んだ。同士に会いたいような、手紙の相手が欲しくなったような、衝動的な行為だった。

教室は、蔦の絡まる6区の秘密めいた場所にあった。アトリエを仕切るフランソワーズは、プルースト似の眠そうな目をした声の低い女性で、考え深げで物静かな人。ジャケットの襟にアンティークなブローチを刺し、デカダンスなムードを漂わせていた。

毎週、軽い雑談の後に本日のお題が出され、時間以内に書き上げたものを各自が順番に読み上げる。参加者は10名ちょっとくらい。老若男女入り混じっていたけれど、たぶん私が最年少だったと思う。毎回、静かな緊張感と、心地よい分け合いのひと時が味わえた。

テクニック的なアドヴァイスや、文章校正などは一切ない。それぞれが得たインスピレーションを文章にして、出来上がったものをみんなで味わう といった趣向が楽しかった。コメントを披露し合うワイン教室のような感じだった。

ド根性で飛び込んだ私はフランソワーズの気に入って、アトリエを辞めてからも時々個人的に連絡をもらったものだ。

 

そして、またパタリと「手向ける相手」がいなくなった長い年月の末、久々に再開したのがこの日々の記録という訳だ。外国の地で日本語を忘れないために。そして、日々の思いが忘れ去られてしまわないように。相変わらず、特定の「お相手」がいる訳ではないけれど、まずは自分に向けて。時々、誰かさんを思いながら。人に読まれることもあれば、読まれないこともあるだろうけれど、それでも、いつもどこかで誰かに支えてもらっているような気がする。

取り合えず、今はそんなところだ。