苦い記録
子供の頃に算数が苦手だった理由は、数字というものに温もりやストーリーを感じなかったから。算数は「冷たい」と思っていた。
でも、これくらいにの大人になってみると、自ずと数にまつわる個人的な思い出や逸話も増えようというもの。それで、今頃になって、算数嫌いもずいぶん和らいだように思う。
昔から私は14という数字に縁があった。パリに暮らすようになってからは、その倍の28にもご縁がある。その他にもいくつか思い入れのある数があったりする。
日本の伝統には「吉日」という概念があるけれど、フランスにはそれに相当するものがない。大切なことを予定に入れる時、いつの日からか、自分に縁のある数字を「私の吉日」として意識的に選ぶようになった。日本にいた頃は、カレンダーの「吉日」なんて完全に無視していたクセに。
今日は1月28日。
パリの6区に借りていた私の小さなアトリエをクローズした。仕事場として使うために見つけたささやかな空間だった。予定外の事情が重なって、思うように足繁く通うことが出来なかった。苦い思いだ。
3歩もあれば奥の壁にたどり着いてしまう、極小さな細長い空間。文字通りの鰻の寝床。猫の額。ガラス張りのドア越しに見える、アパルトマン共同の石畳の中庭が好きだった。ここに何時間も篭って仕事をするのだと、わくわくしながら借りた空間。母のお陰で叶った贅沢。
5分もあればすっかり片付いてしまうような床を掃除して、ドアを閉じ、最後に深緑の鎧戸を閉めた。大家のムッシューに鍵を引き渡す。苦い思いだ。
この経験から引き出すべきものは何だろうと考える。
固まりの時間は、どうひっくり返っても、今の私には手に入らないものなのだと痛いほどよく判った。さにあれば、テーブルの上のパン屑のような、取るに足りない時間を集めるより他に「自分の時間」を捻り出す手立てはない。年単位の長いはずの時間が、実にあっという間に過ぎてしまうことに呆気にとられている。自己嫌悪だ。
デッドラインはスタートライン。
意識的にパン屑の時間を集めるのだ。それにはきっと技術が必要だろう。作戦を練り直そう。さもなければ、また知らず知らずの間に時間が過ぎてしまうことは明らかに目に見えている。チリも積もれば山となる。
アトリエの時間を取り返すのに、どれくらいの月日が必要だろう?数字を割り出してみる。
苦手ではなくなった算数の出番だ。