Ma boîte à bijoux 日々のビジュー

パリでの日々、思ったこと

Pensée du jour

常々思うのだけれど、どうして1週間は7日で、休みと言えば土曜と日曜で、その上、1日に3回も私達はごはんを食べるのだろう?


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放っておいてもらえるなら、私の場合、月曜日は土曜日となんら変わりない。今も昔も徹夜なんてへっちゃらで、時計がなかったら私の1日は完全にズレているだろう。それに、忙しければチップスとリンゴと前日のバゲットの残りだけで一ヶ月は平気で幸せに暮らしていける。健康的ではないけれど、稼いだ時間を自分の熱中する事に使えるのなら、心のほうは今よりよっぽど爽快に違いない。すこぶる元気な栄養失調になるだろう。

 

ひとつの事を考えているだけで午前中がさっさと過ぎてしまうことも多いし、誰かから貰ったメールや手紙を何度も読み返しているだけで夜はあっという間に更けてしまう。読みたい本を開いたら簡単には閉じたくはないし (だから最近は殆ど開かない)、途中で思う事が浮かんで同時にそちらにも意識を向けると、1日なんてまさに一瞬で過ぎる。何をするにも相当に速度が遅いせいだ。それに、1人で過ごしていたら、何かに夢中になると一食くらい平気で忘れてしまう。時間の感覚が、一般的な規程と全然合っていないらしいのだ。これは相当厄介な事だ。

 

人と一緒に暮らすようになったり、ママンになってからというもの、自分にとって意義のある物事に没頭しようにも、3度のごはんの支度とか、子供のお迎えの時間とか、買い物や洗濯掃除や、一人で暮らしていたのなら全く優先でない重要な事が散りばめられていて、何度もイタズラに目覚ましが鳴って中断される睡眠のような昼間だ。うかうか夢も見ていられない。生まれ持っての自分のリズムを変更する必要に迫られる。

 

女性に現実的な人が多いのは、きっと、そんな日々の「生活」が否応なく私達を地に引き留めるからだろうと思う。心ここに在らずでは子供は育てられないし、誰かを支える事もできない。時々ハイヒールなんて物を履いたりするのは、そうやって少しでも地を離れて「羽ばたく」必要があるからに違いない。手っ取り早く、物理的にその必要を満たそうとする手段に違いない。

 

息子の歴史の授業はちょうどルネッサンスに差し掛かっている。例えば、フランソワ1世はダヴィンチを庇護して、住まいから食事から時間まで確保してやっていたのだと話して聞かせながら、人が壮大な芸術(夢)を実現させるには、こういったパトロン(保護者)のシステムがどうしたって必要不可欠なのだと思った。パリの過去の素晴らしい建造物などを見ても同じこと。幸か不幸か、圧倒的な権力や経済力を持つ独裁者のタクトと、更に犠牲があってこその産物だ。

 

思えば、私の幼少時代、父と母は保護者として私に夢を見る時間をたくさん確保してくれた。それは今でも確実に私の生きるエネルギー源になっている。今度はその私がママンとなった今、息子にちゃんとそんな時間を確保してあげられているだろうか? 

そして私は、「平和な」日々の生活の中で、細分化された時間軸の中で、自分の時間を、今度は自分でどうにか確保する方法を見つけ出さなければならないのだろう。エネルギーを奪う「生活」に対抗する反逆児として。